幕末の偉人

歌川広重とは?東海道五十三次と名所江戸百景の代表作を解説

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歌川広重とは?東海道五十三次と名所江戸百景の代表作を解説
「広重死絵」歌川国貞 筆。広重の追善に摺られた肖像 / 出典: Wikimedia Commons CC0

浮世絵といえば美人画と役者絵――その常識を、風景画で塗り替えた絵師がいます。歌川広重です。

目次

歌川広重とは何をした人か

広重は、風景画を浮世絵の主役に押し上げた人物です。

代表作の『東海道五十三次』と『名所江戸百景』は、いずれも土地そのものを主題にしています。人物は点景にすぎません。旅先の景色や、江戸の街角を眺めること自体が娯楽になるという感覚を、彼の絵は作りました。

寛政 9 年(1797 年)、江戸の生まれ。父は定火消の同心でした。火事の多い江戸で消火にあたる、幕府の役職です。もともと絵師の家ではありません。

文化 6 年(1809 年)に父母を相次いで亡くし、家督を継いで同心となりました。数えで 13 歳、満では 11 か 12 のことです。そのかたわら歌川豊広に入門し、絵を学びます。

代表作

東海道五十三次

天保初年(1830 年代初頭)に刊行され、大変な評判となりました。江戸の日本橋から京都までの宿場を順に描いた連作です。

この作品の特徴は、天候と時刻にあります。雨、雪、霧、夕暮れ。同じ街道の風景を、条件を変えて描き分けています。

とりわけ知られるのが、篠突く雨の中を人が急ぐ「庄野」、雪に埋もれた「蒲原」、宿場の喧騒を描いた「日本橋」といった図です。旅そのものより、旅先で出会う空気を描いた連作でした。

名所江戸百景

晩年の大作で、江戸の各所を 100 図を超える規模で描いています。

こちらの特徴は大胆な構図です。手前に巨大なものを配置し、その向こうに遠景を置く。橋を真上から見下ろす。木の幹で画面を分断する。写真のレンズのような視点が、繰り返し試されています。

「大はしあたけの夕立」や「亀戸梅屋舗」は、この構図の実験がとりわけ際立った作例です。

ゴッホが模写した絵

広重の名が世界に知られる大きな理由が、ヨーロッパの画家たちへの影響です。

19 世紀後半、日本の美術品が大量にヨーロッパへ渡り、ジャポニスムと呼ばれる流行を生みました。浮世絵の平面的な色面、大胆な構図、輪郭線の扱いは、当時の画家たちにとって新鮮なものでした。

ゴッホは広重の絵を油彩で模写しています。 「大はしあたけの夕立」と「亀戸梅屋舗」がそれで、原画の構図をほぼそのまま油絵に移し替えた作品が残っています。

江戸の庶民が買っていた版画が、西洋絵画の転換点に関わったわけです。

広重と国芳、そして北斎

同じ歌川派には、歌川国芳という同世代の絵師がいました。国芳が武者絵や奇想で知られるのに対し、広重は静かな風景。同じ流派から正反対の個性が出たことになります。

また風景画の先行者としては葛飾北斎がいます。北斎の『富嶽三十六景』が広重より先に世に出ており、風景画という市場を切り開いたのは北斎です。

両者はよく比較されます。北斎が構図で自然を掴みにいくのに対し、広重は情景に寄り添う。 富士を造形として描いた北斎と、雨や雪の中に人を置いた広重。この違いは、二人の絵を並べるとすぐに分かります。

最期

安政 5 年(1858 年)、広重は江戸で世を去りました。享年は数えで 62と伝えられます。生まれた月日が分かっていないため、満年齢は 60 か 61 のいずれかで、確定できません。

この年、江戸ではコレラが大流行していました。広重の死もその流行のさなかのことです。

辞世として伝わる歌があります。東の国に筆を残して、西方の名所を見に行こう――という趣旨のもので、死出の旅路すら名所見物になぞらえているところに、この絵師らしさがあります。

歌川広重の年表

出来事
1797 年江戸に定火消同心の子として生まれる
1809 年父母を失い、家督を継ぐ(数え 13 歳)
1811 年頃歌川豊広に入門
1833 年頃東海道五十三次』を刊行し、名を確立
1856〜58 年名所江戸百景』を制作
1858 年江戸で死去。数え 62 歳(満 60 か 61)

浮世絵という表現については幕末の浮世絵、同時代の絵師は葛飾北斎で扱っています。

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