葛飾北斎とは?有名な絵・名言・生涯をわかりやすく解説

世界でいちばん有名な日本の絵は、おそらくあの波でしょう。葛飾北斎「神奈川沖浪裏」。描いたとき、北斎はすでに 70 歳を超えていました。
目次
葛飾北斎とは何をした人か
北斎は、江戸後期を代表する浮世絵師です。
ただ「浮世絵師」という肩書きは、彼にはやや窮屈です。役者絵も美人画も描き、風景画で新しい領域を開き、絵手本を出し、読本の挿絵を手がけ、肉筆画も残しました。版画・出版・肉筆のすべてにまたがって仕事をした人でした。
生涯に残した作品は 3 万点を超えるとも言われます。宝暦 10 年(1760 年)、江戸の本所に生まれ、嘉永 2 年(1849 年)に亡くなるまで、ほぼ描き続けた生涯でした。享年は数えで 90、満年齢では 88 です。
北斎の有名な絵
富嶽三十六景「神奈川沖浪裏」
爪のような形で砕ける大波、その谷間に呑まれかけた舟、そして遠くに小さく座る富士。手前の一瞬と、奥の不動が同じ画面にあるという構図が、この絵を特別なものにしています。
海外では The Great Wave の名で知られ、印象派の画家たちにも影響を与えました。
富嶽三十六景「凱風快晴」
いわゆる赤富士です。空と雲だけを背景に、赤く染まった富士がただ立っています。波の絵とは正反対の、静けさだけで構成された一枚です。
北斎漫画
「漫画」といっても今日のコミックではありません。人物・動物・風景・妖怪まで、あらゆるものの描き方を集めた絵手本です。全 15 編にわたって刊行され、絵を学ぶ者の教科書として広く読まれました。
生きものの動きを捉える観察の密度が並外れており、後世の画家が繰り返し参照しています。
そのほか
滝ばかりを描いた『諸国瀧廻り』、橋を主題にした連作など、一つのモチーフを徹底的に変奏するシリーズものを多く残しました。
北斎の名言
北斎自身が書き残した言葉のなかで、最もよく知られるのが『富嶽百景』に添えられた一節です。
要約すれば、こうなります。6 歳から絵を描き始めたが、70 歳以前に描いたものは取るに足らない。73 歳になってようやく生き物の骨格や草木の姿が少し分かってきた。80 歳でさらに進み、90 歳で奥義を極め、100 歳になれば神妙の域に至るだろう。
70 歳を過ぎた画家が、自分の過去作を全否定したうえで、100 歳の自分に期待しているのです。
そして臨終の際にも、あと 5 年、いや 10 年生きられれば本当の絵師になれたのに、という趣旨の言葉を残したと伝えられます。数えで 90 の年の言葉です。
号を変え続けた男
北斎は生涯に号(画号)を 30 回ほど変えたことでも知られます。
春朗、宗理、北斎、戴斗、為一、そして晩年の画狂老人卍。作風を変えるたび、あるいは画業の段階が変わるたびに名を捨てました。
引っ越しも極端で、生涯に 90 回以上住まいを変えたと伝えられます。掃除をせず、汚れたら移る、という暮らしぶりだったといいます。
名も住所も定めない。変わり続けることそのものが方法だった画家でした。
北斎の妻と、娘・応為
北斎は二度結婚したと伝えられますが、妻についての確かな記録は多くありません。
はっきりしているのは娘の存在です。三女のお栄は葛飾応為の号を持つ絵師で、晩年の北斎と同居し、その制作を支えました。
応為の作品は数が少ないものの、光と闇の扱いに独特の鋭さがあり、近年評価が高まっています。北斎の絵のいくつかには、応為の筆が入っているとも言われます。
北斎自身、娘の腕前を認め、美人画では自分より上だという趣旨のことを語ったと伝えられます。
北斎の墓
北斎の墓は、東京都台東区の誓教寺にあります。
墓石には、晩年に自ら定めた戒名が刻まれています。世界的な名声とは裏腹に、下町の寺の一角にある静かな墓です。
葛飾北斎の年表
| 年 | 出来事 |
|---|---|
| 1760 年 | 江戸・本所に生まれる |
| 1778 年頃 | 勝川春章に入門。春朗と号する |
| 1790 年代 | 独立し、たびたび号を改める |
| 1814 年 | 『北斎漫画』初編を刊行 |
| 1831 年頃 | 『富嶽三十六景』を刊行。「神奈川沖浪裏」「凱風快晴」 |
| 1834 年 | 『富嶽百景』。有名な跋文を記す |
| 1849 年 | 江戸で死去。満 88 歳(数え 90 歳) |
浮世絵という表現そのものについては幕末の浮世絵で扱っています。
あわせて読みたい

橋本左内とは?安政の大獄に散った福井の俊英の生涯と名言
数え15歳で『啓発録』を著し、福井藩の藩政改革と将軍継嗣問題に奔走した橋本左内。満25歳で安政の大獄に処刑された俊英の生涯と、その言葉を史実に沿って解説します。

伊東甲子太郎とは?新選組を割って油小路に散った理論家を解説
学識と剣を備えて新選組の参謀となりながら、勤王の志ゆえに袂を分かった伊東甲子太郎。御陵衛士を組織し、油小路で謀殺されるまでの生涯を史実に沿って解説します。

河井継之助とは?長岡藩を率いてガトリング砲で戦った男を解説
小藩・長岡を率い、武装中立を掲げて新政府と交渉し、決裂すると最新兵器で戦った家老・河井継之助。北越戦争での奮戦と、傷を負って山を越え41歳で果てた最期を史実に沿って解説します。
