幕末の偉人

来島又兵衛とは?高杉晋作の説得を退けて禁門の変に散った猛将

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来島又兵衛とは?高杉晋作の説得を退けて禁門の変に散った猛将

高杉晋作が土下座して止めた進撃があります。止められなかった相手が、来島又兵衛です。

目次

来島又兵衛とは何をした人か

来島は、長州藩士であり、遊撃隊の総督です。

歴史に残る場面は、ほぼ一つに集約されます。元治元年(1864 年)の禁門の変で、京都へ攻め上る長州軍の先鋒を率い、戦死したことです。

彼は武人としての評価が高い一方で、その判断が長州藩を破滅的な状況に追い込んだとも言われます。「猛将」という言葉が、そのまま長所と欠点の両方を指している人物です。

文化 14 年(1817 年)に生まれ、元治元年(1864 年)に没しました。

来島又兵衛が四十を過ぎて剣を学び直した理由

来島は槍術に長けた武人でした。

彼について語られる逸話に、中年になってから剣術を学び直したというものがあります。時代が変わり、槍だけでは足りないと判断したというのです。

四十を過ぎて基礎から稽古をし直す——この気性が、彼の全てを説明します。思い込んだら退かない。年齢や体面を理由にしない。

そして同じ気性が、最後に彼を殺しました。

来島又兵衛と八月十八日の政変

文久 3 年 8 月(西暦では 1863 年 9 月)、京都で政変が起こります。

会津と薩摩が結び、長州藩を京都から追い出したのです。長州が担いでいた尊王攘夷派の公卿たちも失脚し、京を去りました。

長州藩は、朝廷における足場を完全に失いました。「朝敵」と見なされる方向へ、この時点から傾いていきます。

藩内では議論が割れました。兵を出して京都へ上り、藩の立場を訴えるべきだという主戦派と、今動けば逆賊にされるという慎重派です。

来島は主戦派の中心でした。

来島又兵衛と高杉晋作の対立

来島の進発論に、強く反対したのが高杉晋作です。

高杉の読みは冷静でした。今の長州に、会津と薩摩を相手にする力はない。京都で戦えば負け、負ければ朝敵の名が確定する。幕府はそれを口実に長州征討に来る——そう見ていたのです。

高杉は来島を訪ね、進発を止めようとしました。説得は感情的なものになり、平伏して懇願したと伝えられます。

来島は退きませんでした。逆に高杉を臆病と責めたとされます。

結果として、高杉の読みは全て当たりました。

来島又兵衛の最期と禁門の変

元治元年 7 月 19 日(西暦では 1864 年 8 月 20 日)、長州軍は京都へ突入します。禁門の変、または蛤御門の変です。

来島は遊撃隊を率いて御所へ迫りました。目指したのは蛤御門です。

戦いは激しいものでしたが、短時間で決しました。守る側には会津・薩摩・桑名が揃っており、兵力も装備も上でした。

蛤御門付近で、来島は薩摩藩兵の銃撃を受けます。

騎乗していた彼は撃たれて負傷し、もはや戦えないと見て自刃しました。満 47 歳です。

同じ日、別の場所で久坂玄瑞も自刃しています。松下村塾の双璧の一人と、遊撃隊の総督が、同じ一日に死んだことになります。

来島又兵衛の一日が長州に与えたもの

禁門の変の代償は、来島の命だけではありませんでした。

長州藩は朝敵となりました。御所に発砲した藩、という事実が残ったのです。

幕府はこれを口実に第一次長州征討を起こします。長州藩は謝罪と責任者の処罰を受け入れ、藩政は保守派(俗論党)に握られました。高杉晋作井上馨は追われ、井上は襲撃されて瀕死の重傷を負っています。

長州が立ち直るのは、この後の高杉の功山寺挙兵からです。

来島の進撃は、長州を一度潰しました。そして潰れたところから作り直された長州が、四年後に幕府を倒します。

来島又兵衛の評価

来島は、山口では忠勇の士として顕彰されてきました。藩の名誉のために躊躇なく死んだという点で、当時の価値観からは疑いなく立派な武人です。

一方で、軍事的な判断としては誤っていたという評価も定着しています。

この二つは矛盾しません。勇気と判断は別のものだからです。来島又兵衛は、勇気だけで説明がつく人物であり、そこが限界でもありました。

来島又兵衛の年表

出来事
1817 年長州藩士の家に生まれる
1860 年代前半遊撃隊の総督となる
1863 年 9 月八月十八日の政変で長州が京都を追われる
1864 年進発を主張し、高杉晋作の反対を退ける
1864 年 8 月 20 日禁門の変で蛤御門に迫り、狙撃されて自刃。満 47 歳
1864 年以降長州は朝敵となり、第一次長州征討を受ける

同じ日に死んだのは久坂玄瑞、進発に反対したのは高杉晋作です。

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