幕末の偉人

楫取素彦とは?松陰の妹を娶り群馬を作った長州の実務家

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楫取素彦とは?松陰の妹を娶り群馬を作った長州の実務家
楫取素彦 肖像(明治 12 年『人物写真帖』より) / 出典: Wikimedia Commons Public domain

吉田松陰の妹を、二人とも妻にした人物がいます。楫取素彦。群馬県を作った男でもあります。

目次

楫取素彦とは何をした人か

楫取は、長州藩士から明治の県令に進んだ実務家です。もとの名は小田村伊之助。

その生涯は三つに分かれます。

第一に、松陰の縁者として。 吉田松陰の妹・寿を妻に迎え、寿の死後にもう一人の妹・文を後妻としました。文は久坂玄瑞の未亡人です。

第二に、長州の実務家として。 藩内の路線闘争を生き延び、戊辰戦争を経て新政府に入りました。

第三に、現行群馬県の初代県令として。 製糸業と教育の基礎を築き、群馬県の形を作りました。

文政 12 年(1829 年)に生まれ、大正元年(1912 年)に没しました。

楫取素彦と松下村塾の関係

楫取は、松下村塾の門下生ではありません。藩校・明倫館の助講を務め、儒学を講じた学者であり、松陰とは同格に近い立場で交わった人物です。

そして松陰の妹・寿を妻に迎えます。義兄弟の関係です。

松陰が安政の大獄で処刑された後、楫取は松陰の遺した家族を支える側に回りました。

松陰のもう一人の妹・文は、門下生の久坂玄瑞に嫁いでいました。しかし玄瑞は元治元年(1864 年)の禁門の変で自刃します。文は二十代で未亡人になりました。

そして明治 14 年(1881 年)、楫取の妻・寿が病没します。

明治 16 年(1883 年)5 月 3 日、楫取は文を後妻に迎えました。

松陰の妹二人を、順に妻にしたことになります。これは「制度の話」でもあります。当時、寡婦や子のない家を親族間で引き受けるのは珍しくありませんでした。それでも、松陰の家族を最後まで抱えたという点で、楫取の位置は特別です。

楫取素彦は群馬県令として何をしたか

明治になり、楫取は地方行政の道に進みます。

明治 9 年(1876 年)、彼は群馬県令——現在の知事に相当する職に就きました。群馬県は明治 4〜6 年(1871〜73 年)に一度置かれて消えており、楫取は1876 年に再置された現行群馬県の初代県令です。

彼が力を注いだのは、二つでした。

製糸業。 群馬は養蚕と製糸の土地です。明治 5 年(1872 年)に富岡製糸場が操業を開始しており、生糸は日本最大の輸出品でした。楫取は製糸業の振興と、生産者の組織化に取り組みました。

教育。 学校の設置と、教員の養成です。楫取はもともと藩校の教授でした。教育を行政の柱に据えたのは、その経歴によるものでしょう。

「県を作る」というのは、こういう仕事です。産業を伸ばし、学校を置き、人を育てる。華やかな政治史には残りませんが、県の形はここで決まりました。

群馬県では、楫取は現行県の初代県令として顕彰されています。

楫取素彦の妻・文(美和子)

楫取の後妻となったは、明治になって美和子と名を改めました。

彼女の生涯は、そのまま幕末長州の縮図です。兄は吉田松陰、最初の夫は久坂玄瑞、姉の夫が楫取素彦。

兄も夫も、二十代から三十代で死にました。そして彼女は明治を生き、群馬で県令の妻として過ごしました。

松陰の家に生まれた者のうち、最も長く生きて、最も多くを見た一人です。

楫取素彦の最期

大正元年(1912 年)8 月 14 日に没しました。満 83 歳です。

明治天皇が亡くなったのは同年 7 月 30 日で、楫取の死はその約二週間後にあたります。元号が明治から大正に替わった直後でした。明治という時代が終わるのと、ほぼ同時に死んだことになります。

松下村塾の関係者で、これほど長く生きた人間はほとんどいません。高杉晋作久坂玄瑞入江九一も二十代で死に、前原一誠は反乱で斬られました。

楫取は、その全員を見送った側にいたわけです。

楫取素彦の年表

出来事
1829 年長州藩士の家に生まれる(小田村伊之助)
1847 年藩校・明倫館の助講となる
1850 年代吉田松陰の妹・寿を妻に迎える
1859 年松陰が安政の大獄で処刑される
1864 年久坂玄瑞が禁門の変で自刃し、松陰の妹・文が未亡人となる
1868 年戊辰戦争を経て新政府に入る
1881 年妻・寿が病没
1883 年 5 月 3 日文を後妻に迎える
1876 年再置された現行群馬県の初代県令となり、製糸業と教育の基礎を築く
1912 年 8 月 14 日没。満 83 歳(大正元年)

義兄は吉田松陰、妻の前夫は久坂玄瑞、同時代の松下村塾関係者は高杉晋作前原一誠です。

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