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東洲斎写楽とは?十か月で消えた謎の浮世絵師とその正体

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東洲斎写楽とは?十か月で消えた謎の浮世絵師とその正体
東洲斎写楽「三代目大谷鬼次の奴江戸兵衛」(1794・重要文化財) / 出典: Wikimedia Commons Public domain

十か月だけ作品を出して、消えた絵師がいます。東洲斎写楽。生年も没年も、本名すら確定していません。

目次

東洲斎写楽とは何をした人か

写楽は、江戸時代後期の浮世絵師です。

その活動は、驚くほど短く、そして濃い。

活動期間は約十か月。 寛政 6 年 5 月(旧暦。グレゴリオ暦では 1794 年 5 月 29 日〜6 月 26 日)から、寛政 7 年(1795 年)の初めごろまでです。

作品は百四十点余り。 そのほとんどが役者絵——歌舞伎役者を描いたものです。

そして、消えました。 以後、写楽の名で出た作品はありません。なぜ辞めたのかも、その後どうなったのかも分かっていません。

東洲斎写楽のデビューはなぜいきなり最高潮だったのか

写楽の登場は異例でした。

寛政 6 年 5 月、彼は二十八図の役者絵を一度に発表します。大判の大首絵——役者の顔を大きく画面いっぱいに描いた作品群です。

背景は黒雲母摺雲母の粉を蒔いて黒く光る地にして、そこに顔を浮かび上がらせています。手間のかかる贅沢な技法です。

無名の絵師のデビュー作に、版元がここまで金をかけるのは通常ありません。

版元は蔦屋重三郎でした。喜多川歌麿や十返舎一九を世に出した、当時の江戸で最も勢いのある出版人です。写楽は蔦屋の企画として登場したと考えられています。

東洲斎写楽の役者絵はなぜ他と違うのか

当時の役者絵には、はっきりした約束事がありました。役者を美しく、格好よく描くことです。

役者絵は、今でいうアイドルの写真集です。買うのはその役者のファンであり、実物より良く見えなければ売れません。顔は類型化され、誰を描いても似た美男美女になりました。

写楽はそれをしませんでした。

彼が描いたのは、目の細さ、鼻の形、顎の張り、口の曲がり方——役者個人の顔の癖です。しかもそれを誇張して描きました。

結果として、役者の「その瞬間の表情」が画面に固定されます。演技をしている人間の、生々しい顔です。

これは似顔絵の凄みであり、同時に商品としては危険でした。「美しく描いてもらえない」役者絵だからです。

東洲斎写楽が十か月で消えた理由

写楽が消えた理由は分かっていません。史料が無いからです。

推測として語られるものはいくつかあります。売れなかった役者や興行側から嫌われた病気や死本業に戻ったどれも確定していません。

一方、よく挙がる「版元の蔦屋が処罰されて後ろ盾を失った」という説明は、時系列が合いません。蔦屋の身上半減の処分は寛政 3 年(1791 年)で、写楽の登場より三年前です。蔦屋はその後も浮世絵出版を本格化させ、写楽の作品は全て蔦屋から出ています。処分が経営を制約した可能性を指摘する説はありますが、写楽が活動中に版元を失ったことを示す史料はありません。

言えるのは、後期の作品では画風が変わっていくことです。初期の強烈な大首絵から、全身像や小さめの判へ移り、誇張が弱まっていきます。

注文に合わせて丸くなっていったとも読めますし、別の方向を探っていたとも読めます。

東洲斎写楽の正体をめぐる諸説

「写楽とは誰か」は、日本美術史で最も有名な謎の一つです。

長いあいだ、歌麿の別名北斎の別名円山応挙歌舞伎役者本人十返舎一九など、多くの説が唱えられてきました。同時代の有名人を当てはめる推理が繰り返されたのです。

しかし現在、最も有力とされるのは「斎藤十郎兵衛」説です。

斎藤十郎兵衛は、阿波徳島藩に仕えた能役者とされる人物です。この説の根拠は、江戸後期の文献にあります。斎藤月岑の『増補浮世絵類考』に、写楽が「斎藤十郎兵衛、俗称八丁堀に住す」と記されているのです。

同時代に近い記録が、実名を挙げているという点で、この説は他の推測と質が違います。近年は斎藤十郎兵衛の実在と経歴を示す資料も確認され、日本の浮世絵研究では最も有力な説とされています。ただし国際的に完全な合意が成立しているわけではありません

ただし、「斎藤十郎兵衛だとして、なぜ能役者が役者絵を描いたのか」は、依然として説明されていません。名前が分かっても、謎は残っています。

東洲斎写楽はなぜ海外で先に評価されたのか

写楽の名が世界的になったのは、日本ではなく海外からでした。

明治以降、浮世絵は大量に海外へ流出します。そのなかで写楽の役者絵は、ヨーロッパの美術愛好家に強い印象を与えました。

決定的だったのは、ドイツの研究者ユリウス・クルトが 1910 年に出した研究書『Sharaku』です。クルトは写楽をレンブラント、ベラスケスと並ぶ肖像画家として位置づけました。

この評価が日本に逆輸入され、「写楽ブーム」が起きます。

江戸で十か月しか売れなかった絵師が、百年以上たって世界的な巨匠として扱われたわけです。

東洲斎写楽の年表

出来事
生年不詳
1794 年 5〜6 月蔦屋重三郎から二十八図の黒雲母摺大首絵でデビュー(寛政 6 年 5 月)
1794 年〜95 年約十か月で百四十点余りの役者絵を発表。後期は画風が変化
1795 年初め以後、写楽名の作品が絶える
没年不詳
1910 年ユリウス・クルトの『Sharaku』が刊行され、海外での評価が確立

同時代の絵師は葛飾北斎歌川広重歌川国芳、同じ蔦屋から出たのは十返舎一九、幕末の浮世絵は幕末の浮世絵で扱っています。

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