東洲斎写楽とは?十か月で消えた謎の浮世絵師とその正体

十か月だけ作品を出して、消えた絵師がいます。東洲斎写楽。生年も没年も、本名すら確定していません。
目次
東洲斎写楽とは何をした人か
写楽は、江戸時代後期の浮世絵師です。
その活動は、驚くほど短く、そして濃い。
活動期間は約十か月。 寛政 6 年 5 月(旧暦。グレゴリオ暦では 1794 年 5 月 29 日〜6 月 26 日)から、寛政 7 年(1795 年)の初めごろまでです。
作品は百四十点余り。 そのほとんどが役者絵——歌舞伎役者を描いたものです。
そして、消えました。 以後、写楽の名で出た作品はありません。なぜ辞めたのかも、その後どうなったのかも分かっていません。
東洲斎写楽のデビューはなぜいきなり最高潮だったのか
写楽の登場は異例でした。
寛政 6 年 5 月、彼は二十八図の役者絵を一度に発表します。大判の大首絵——役者の顔を大きく画面いっぱいに描いた作品群です。
背景は黒雲母摺。雲母の粉を蒔いて黒く光る地にして、そこに顔を浮かび上がらせています。手間のかかる贅沢な技法です。
無名の絵師のデビュー作に、版元がここまで金をかけるのは通常ありません。
版元は蔦屋重三郎でした。喜多川歌麿や十返舎一九を世に出した、当時の江戸で最も勢いのある出版人です。写楽は蔦屋の企画として登場したと考えられています。
東洲斎写楽の役者絵はなぜ他と違うのか
当時の役者絵には、はっきりした約束事がありました。役者を美しく、格好よく描くことです。
役者絵は、今でいうアイドルの写真集です。買うのはその役者のファンであり、実物より良く見えなければ売れません。顔は類型化され、誰を描いても似た美男美女になりました。
写楽はそれをしませんでした。
彼が描いたのは、目の細さ、鼻の形、顎の張り、口の曲がり方——役者個人の顔の癖です。しかもそれを誇張して描きました。
結果として、役者の「その瞬間の表情」が画面に固定されます。演技をしている人間の、生々しい顔です。
これは似顔絵の凄みであり、同時に商品としては危険でした。「美しく描いてもらえない」役者絵だからです。
東洲斎写楽が十か月で消えた理由
写楽が消えた理由は分かっていません。史料が無いからです。
推測として語られるものはいくつかあります。売れなかった、役者や興行側から嫌われた、病気や死、本業に戻った。どれも確定していません。
一方、よく挙がる「版元の蔦屋が処罰されて後ろ盾を失った」という説明は、時系列が合いません。蔦屋の身上半減の処分は寛政 3 年(1791 年)で、写楽の登場より三年前です。蔦屋はその後も浮世絵出版を本格化させ、写楽の作品は全て蔦屋から出ています。処分が経営を制約した可能性を指摘する説はありますが、写楽が活動中に版元を失ったことを示す史料はありません。
言えるのは、後期の作品では画風が変わっていくことです。初期の強烈な大首絵から、全身像や小さめの判へ移り、誇張が弱まっていきます。
注文に合わせて丸くなっていったとも読めますし、別の方向を探っていたとも読めます。
東洲斎写楽の正体をめぐる諸説
「写楽とは誰か」は、日本美術史で最も有名な謎の一つです。
長いあいだ、歌麿の別名、北斎の別名、円山応挙、歌舞伎役者本人、十返舎一九など、多くの説が唱えられてきました。同時代の有名人を当てはめる推理が繰り返されたのです。
しかし現在、最も有力とされるのは「斎藤十郎兵衛」説です。
斎藤十郎兵衛は、阿波徳島藩に仕えた能役者とされる人物です。この説の根拠は、江戸後期の文献にあります。斎藤月岑の『増補浮世絵類考』に、写楽が「斎藤十郎兵衛、俗称八丁堀に住す」と記されているのです。
同時代に近い記録が、実名を挙げているという点で、この説は他の推測と質が違います。近年は斎藤十郎兵衛の実在と経歴を示す資料も確認され、日本の浮世絵研究では最も有力な説とされています。ただし国際的に完全な合意が成立しているわけではありません。
ただし、「斎藤十郎兵衛だとして、なぜ能役者が役者絵を描いたのか」は、依然として説明されていません。名前が分かっても、謎は残っています。
東洲斎写楽はなぜ海外で先に評価されたのか
写楽の名が世界的になったのは、日本ではなく海外からでした。
明治以降、浮世絵は大量に海外へ流出します。そのなかで写楽の役者絵は、ヨーロッパの美術愛好家に強い印象を与えました。
決定的だったのは、ドイツの研究者ユリウス・クルトが 1910 年に出した研究書『Sharaku』です。クルトは写楽をレンブラント、ベラスケスと並ぶ肖像画家として位置づけました。
この評価が日本に逆輸入され、「写楽ブーム」が起きます。
江戸で十か月しか売れなかった絵師が、百年以上たって世界的な巨匠として扱われたわけです。
東洲斎写楽の年表
| 年 | 出来事 |
|---|---|
| 生年 | 不詳 |
| 1794 年 5〜6 月 | 蔦屋重三郎から二十八図の黒雲母摺大首絵でデビュー(寛政 6 年 5 月) |
| 1794 年〜95 年 | 約十か月で百四十点余りの役者絵を発表。後期は画風が変化 |
| 1795 年初め | 以後、写楽名の作品が絶える |
| 没年 | 不詳 |
| 1910 年 | ユリウス・クルトの『Sharaku』が刊行され、海外での評価が確立 |
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