幕末の偉人

歌川国芳とは?武者絵と猫、そして風刺画で知られる絵師を解説

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歌川国芳とは?武者絵と猫、そして風刺画で知られる絵師を解説
「猫飼好五十三疋」歌川国芳(東海道の宿場名を猫に見立てた戯画) / 出典: Wikimedia Commons Public domain

猫を描き、妖怪を描き、その絵が幕府への皮肉と読まれた絵師です。歌川国芳。同じ歌川派の歌川広重とは、まるで正反対の個性でした。

目次

歌川国芳とは何をした人か

国芳の仕事は、大きく四つに分かれます。

武者絵。 水滸伝の豪傑たちを描いた連作で人気を得ました。筋骨隆々の人物が全身の刺青とともに画面から迫ってくる、それまでにない絵です。

戯画。 猫、狸、金魚、骸骨。動物や妖しいものを擬人化し、笑いをとる絵を大量に残しました。

寄せ絵。 人の顔が、よく見ると小さな人間の集まりでできている――そうした視覚の仕掛けを好みました。

風刺と読まれた絵。 政治を直接描けない時代に、歴史や伝説に仮託した絵を出し、それが当時の政治への当てこすりとして受け取られました。

寛政 9 年 11 月 15 日、江戸日本橋の染物屋の子として生まれます。西暦に直すと 1798 年 1 月 1 日にあたります。

武者絵で世に出る

国芳は歌川豊国の門下に入りますが、長く芽が出ませんでした。

転機は文政 10 年(1827 年)ごろ、**『通俗水滸伝豪傑百八人之一個』**の連作です。中国の『水滸伝』の豪傑を、一人ずつ大判に描いた仕事でした。題に「百八人」とありますが、実際に確認されている作は 74 図・75 人分で、全員が描かれたわけではありません。

これが当たります。「武者絵の国芳」という評価が定まり、彫物(刺青)の図案としても江戸で流行しました。

猫の絵師

国芳は大変な猫好きでした。

懐に猫を入れて絵を描いていた、家に何匹も飼っていた、猫が死ぬと戒名をつけて弔った――そうした逸話が伝わります。

作品にも猫は繰り返し現れます。猫を人のように振る舞わせた戯画猫の姿を寄せ集めて文字を作った絵東海道の宿場名を猫の駄洒落で表した絵

動物を描いた絵ではなく、猫が人間社会を演じている絵です。だからこそ今日でも通じます。国芳の人気が近年高まっている理由の一つが、ここにあります。

天保の改革と風刺画

天保年間、幕府は天保の改革として厳しい統制を行いました。ぜいたくの禁止、出版の取り締まり。役者絵や遊女の絵は禁じられます。

絵師にとっては商売の根幹を絶たれる事態です。

国芳が取った方法は、別のものに置き換えて描くことでした。役者を描けないなら猫や落書き風の絵にする。政治を批判できないなら、歴史や伝説の場面として描く。

有名なのが、土蜘蛛と妖怪の群れを描いた絵です。表向きは平安の伝説を題材にした武者絵ですが、描かれた妖怪たちが改革で苦しむ人々や役人を暗示しているという噂が立ち、江戸で大評判になりました。版元は自主的に版を引き上げています。

ただし、国芳自身がそのつもりで描いたのかは分かりません。確かなのは、そう読まれたという事実のほうです。規制のある時代に、絵が読み手の側で意味を持った例と言えます。

門下から出た者たち

国芳の門下からは、次の世代を担う絵師が出ました。

とりわけ月岡芳年は、明治にかけて活躍し、血みどろの残酷絵から歴史画・美人画まで幅広く残しています。浮世絵の最後の輝きを担った世代です。

最期

文久元年(1861 年)、国芳は江戸で世を去りました。満 63 歳です。

黒船が来てから 8 年、明治維新までは 7 年という時期でした。江戸の絵師として生き、江戸が終わる前に死んだことになります。

歌川国芳の年表

出来事
1798 年 1 月江戸日本橋の染物屋の子として生まれる(寛政 9 年 11 月 15 日)
1810 年代歌川豊国の門下に入る
1827 年頃『通俗水滸伝豪傑百八人之一個』で人気を得る
1840 年代天保の改革の統制下で、風刺と読まれた作品を出す
1850 年代猫や寄せ絵の戯画を多数手がける
1861 年江戸で死去。満 63 歳

浮世絵については幕末の浮世絵、同じ歌川派の絵師は歌川広重で扱っています。

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