十返舎一九の読み方は?膝栗毛で日本初の職業作家になった生涯

読み方は「じっぺんしゃ いっく」です。『東海道中膝栗毛』の作者であり、日本で最初期の職業作家とされる人物です。
目次
十返舎一九とは何をした人か
一九の仕事は、ひとことで言えば笑いを売って生きたことです。
代表作の『東海道中膝栗毛』は、弥次郎兵衛と喜多八の二人が江戸から京・大坂へ旅をする道中記。行く先々で失敗し、騙され、恥をかく。筋らしい筋のない、笑いだけで進む物語です。
これが当たりました。続編が次々と刊行され、20 年以上にわたって書き継がれます。
そして重要なのは、一九が原稿料で暮らしたという点です。武家に仕えるでも、別の商売を持つでもなく、書くことだけで生計を立てた。日本の職業作家の最初期の例とされます。
「十返舎一九」という名の由来
風変わりな筆名です。
「十返舎」は、香道で用いられる十返の香にちなむとされます。一九自身が香を好んだことによる、と伝えられます。
「一九」は、幼名から取ったとされます。
明和 2 年(1765 年)ごろ、駿河国府中――現在の静岡市――の生まれ。武家の出で、父は町奉行に仕える役人でした。
大坂から江戸へ
若い一九は大坂へ出て、浄瑠璃の作者として仕事を始めます。舞台の脚本です。
その後、江戸へ移りました。ここで身を寄せたのが、版元の蔦屋重三郎です。写楽を世に出し、若い日の葛飾北斎の作も手がけた出版人で、一九は蔦屋の家に住み込み、雑用をこなしながら物を書きました。
出版という商売のただ中で修業したことが、彼の書き方を決めます。何が売れるかを、現場で覚えたのです。
『東海道中膝栗毛』
享和 2 年(1802 年)、『東海道中膝栗毛』の刊行が始まります。
当時、旅は庶民にとって現実的な娯楽になりつつありました。街道と宿場が整い、伊勢参りなどを名目に旅へ出る人が増えていた時期です。
一九はそこへ、旅のガイドと笑い話を兼ねた本を出しました。宿場の名物、道中の作法、旅先での失敗。実用と娯楽が同居しています。
読者は、本を読みながら旅を疑似体験した。 大当たりした理由はここにあります。
一九自身も取材のために街道を歩いたと伝えられます。
死をめぐる伝説
一九の死には、有名な逸話があります。
遺体に花火を仕込ませておき、火葬のときに派手に打ち上がった――というものです。生涯を笑いに費やした男の、最後の一発というわけです。
これは後世に広まった話で、事実として確認できるものではありません。
ただし、この種の伝説が生まれること自体が、一九という作家の受け取られ方を示しています。辞世の句とされるものも、自分の死を笑いにする内容です。
天保 2 年(1831 年)、江戸で死去。満 65 か 66 歳でした。生年に月日の記録がなく、正確な年齢は確定しません。
十返舎一九の年表
| 年 | 出来事 |
|---|---|
| 1765 年頃 | 駿河国府中(現在の静岡市)に武家の子として生まれる |
| 1780 年代 | 大坂で浄瑠璃の作者として活動 |
| 1790 年代 | 江戸へ移り、版元・蔦屋重三郎のもとに身を寄せる |
| 1802 年 | 『東海道中膝栗毛』の刊行が始まる |
| 1802〜22 年 | 続編を書き継ぎ、旅の道中記として人気を保つ |
| 1831 年 | 江戸で死去 |
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