高島秋帆とは?西洋砲術を日本に持ち込み冤罪で幽閉された男の生涯

「このままでは日本も清と同じになる」と幕府に警告した男が、その翌年に捕らえられました。高島秋帆。十二年後、黒船が来てから赦されます。
目次
高島秋帆とは何をした人か
秋帆は、長崎の町役人であり、西洋砲術家です。
その仕事は三つあります。
第一に、西洋の大砲と砲術を日本に持ち込んだこと。 出島のオランダ人から学び、私財で洋式砲を買い、高島流砲術を興しました。
第二に、幕府に海防を建言したこと。 アヘン戦争で清が敗れた報を受け、西洋式の砲術を採用しなければ日本も同じ目に遭うと上書しました。
第三に、日本で最初の西洋式砲術演習を行ったこと。 天保 12 年(1841 年)、武州徳丸原での演習です。この土地は今、彼の名をとって「高島平」と呼ばれています。
寛政 10 年(1798 年)に生まれ、慶応 2 年 1 月(西暦では 1866 年 2 月)に没しました。
高島秋帆の肖像

高島秋帆と長崎という窓
秋帆は長崎の町年寄の家に生まれました。長崎の町政を担う家柄で、同時に出島のオランダ人と接触できる立場でもありました。
彼はそこで西洋の砲術を学びます。オランダ語の砲術書を読み、実物の砲を輸入し、日本の砲術との差を測りました。
当時の日本の大砲は、戦国時代からほとんど進歩していませんでした。射程も命中精度も、西洋の砲とは比べものになりません。秋帆は、その差の大きさを日本で最も正確に知っていた一人です。
高島秋帆が受けたアヘン戦争の衝撃
天保 11 年(1840 年)、清とイギリスの戦争——アヘン戦争が始まります。
長崎には、オランダ船を通じてその情報が入りました。清が敗れていくという報せです。
秋帆にとって、これは他人事ではありませんでした。同じ艦隊が、同じ砲を積んで日本に来る——そう考えるだけの知識が、彼にはあったからです。
天保 12 年(1841 年)、彼は幕府へ上書を提出します。のちに「天保上書」と呼ばれるものです。
内容は具体的でした。西洋式の砲を作り、砲術を学び、砲台を整えよ。兵制も西洋式に改めよ、と。
開国か攘夷かという議論より十年以上早い時期に、「戦えば負ける」という前提から出発した建言でした。
高島秋帆の徳丸原演習
幕府は、この上書を無視しませんでした。
天保 12 年 5 月(西暦では 1841 年 6 月)、武州徳丸原——現在の東京都板橋区で、秋帆による砲術と銃陣の公開演習が行われます。
日本で最初の、西洋式の砲術演習でした。洋式砲を並べ、洋式の隊列で銃を撃つ。幕府の役人が並んで見学しています。
この土地が、のちに高島平と名づけられました。演習場の名前が、そのまま現在の地名として残っているわけです。
高島秋帆はなぜ投獄されたのか
そして翌年、秋帆は捕らえられます。
天保 13 年(1842 年)、長崎会所をめぐる不正などの嫌疑をかけられたのです。西洋砲術を説いたこと自体が罪に問われたのではありません。演習で名が上がった直後に、政敵から別件の嫌疑を立てられた形です。
この逮捕には、当時の南町奉行・鳥居耀蔵が関わっていたとされます。鳥居は洋学を敵視する立場で知られ、蘭学者を弾圧した人物です。水野忠邦の天保の改革で実務を担い、のちに主君を裏切った男でもあります。
秋帆は武州岡部藩に預けられ、幽閉されました。板橋区はこの一件をえん罪として説明しています。
その幽閉は、十年以上続きます。
黒船来航後の高島秋帆
嘉永 6 年(1853 年)、ペリーが浦賀に来ました。
秋帆が十二年前に警告したとおりのことが、実際に起こったのです。
幕府は方針を変えました。秋帆は嘉永 6 年(1853 年)に赦免され、幕府に召し出されます。安政 2 年(1855 年)に教授方頭取、安政 4 年(1857 年)に阿部正弘が設けた講武所の砲術師範役となりました。
罪人として幽閉されていた男が、幕府の砲術教官になったわけです。彼が正しかったと、幕府が認めたことになります。
彼の砲術は弟子たちを通じて広まりました。江川英龍(坦庵)や下曽根信敦が門下から出て、品川の台場の築造や各藩の洋式化につながっていきます。
高島秋帆の最期
慶応 2 年 1 月 14 日(西暦では 1866 年 2 月 28 日)に没しました。満 67 歳です。
戊辰戦争の二年前、日本が本格的に洋式軍隊で戦い始める直前でした。自分が持ち込んだ技術が国内の戦争に使われるところは、見ていません。
東京都板橋区の高島平は、今も彼の名を残しています。日本で最初に西洋の砲が並んだ土地が、そのまま住宅地の名前になりました。
高島秋帆の年表
| 年 | 出来事 |
|---|---|
| 1798 年 | 長崎の町年寄の家に生まれる |
| 1830 年代 | 出島のオランダ人から西洋砲術を学び、高島流砲術を興す |
| 1840 年 | アヘン戦争の報が長崎に届く |
| 1841 年 | 幕府に「天保上書」を提出。西洋砲術の採用と海防を建言 |
| 1841 年 6 月 | 武州徳丸原で日本初の西洋式砲術演習(現在の高島平) |
| 1842 年 | 長崎会所をめぐる嫌疑で捕らえられ、武州岡部藩に幽閉される(えん罪とされる) |
| 1853 年 | ペリー来航を受けて赦免 |
| 1855 年 | 教授方頭取となる |
| 1857 年 | 講武所の砲術師範役となる |
| 1866 年 2 月 | 没。満 67 歳 |
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