幕末の文化

お台場の名前の由来とは?品川台場と江戸湾海防をわかりやすく解説

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お台場の名前の由来とは?品川台場と江戸湾海防をわかりやすく解説
海防の備えとペリー艦隊を描いた瓦版(c.1853) / 出典: Wikimedia Commons PD-old

東京のお台場という地名は、観光地の名前である前に幕末の砲台の名前です。黒船来航の直後、江戸を守るために海に築かれました。

目次

お台場(品川台場)とは

品川台場とは、江戸湾に入る外国艦を砲撃するために、品川沖の海上へ築いた人工島の砲台です。

項目内容
築造の決定嘉永 6 年(1853 年)、ペリー来航の直後
設計・指揮江川英龍(坦庵)——伊豆韮山の代官で、西洋砲術の専門家
場所品川沖(現在の東京都港区台場・品川区東八潮周辺)
計画十一基以上を想定
完成第一・第二・第三・第五・第六の 5 基(1854 年ごろ)
中止資金難と情勢の変化により、残りは未完成のまま打ち切り
現存第三台場(台場公園として立ち入り可)と第六台場(保存のため非公開)。国の史跡

「台場」は砲台の場という意味で、そこに敬意の「お」が付いて「お台場」になりました。地名のほうが砲台より有名になったわけです。

なぜ急いで築いたのか

嘉永 6 年(1853 年)6 月、ペリーの艦隊が浦賀に現れ、測量と称して江戸湾の奥深くまで進みました。

江戸は海に開いた都市です。湾内に軍艦が入れば、そのまま城下を射程に収められます。幕府にはそれを止める手段がありませんでした。

来航の翌月には築造が決まり、わずか一年ほどで五基が形になります。 幕末の幕府の事業としては異例の速さでした。

指揮を執った江川英龍は、西洋砲術を修めた代官で、伊豆韮山に反射炉(大砲を鋳造するための炉)を築いたことでも知られます。大砲を作る側と、据える側の両方を見ていた人物です。

お台場は実戦で使われたのか

使われていません。

翌 1854 年にペリーが再来したとき、交渉は横浜村で行われ、砲火は交えませんでした。その後も台場が砲撃を行った記録はありません。

では無駄だったのか。 そう単純でもありません。

  • 交渉の場が江戸湾の奥ではなく、横浜寄りになった背景のひとつとして、湾内の防備が挙げられます
  • 幕府が「海防のために動いている」と示すこと自体に、国内向けの意味がありました
  • 築造の過程で、西洋式の測量・築城・砲術の実務経験が蓄積されました。 長崎海軍伝習所や洋式軍備の流れは、ここと地続きです

一方で限界もはっきりしていました。資金が尽きて計画の半分も作れず、完成した台場の砲も射程・数ともに列強の艦砲に及びません。海防は台場では完結せず、艦隊を持つしかない——その結論が、幕府の海軍建設につながっていきます。

いま残っているもの

第三台場(台場公園)——石垣と土塁、砲台の跡が残り、実際に歩けます。四角い島の輪郭がそのまま当時の形です。

第六台場——保存のため非公開ですが、レインボーブリッジやゆりかもめから見えます。

その他の台場——埋め立てや撤去により失われました。現在の台場地区の地形は、その埋め立ての結果です。

韮山反射炉(静岡県伊豆の国市)——江川英龍が築いた大砲鋳造の施設で、世界遺産の構成資産になっています。

お台場の年表

出来事
1853 年 7 月ペリーが浦賀に来航(嘉永 6 年 6 月)
1853 年 8 月幕府が品川沖への台場築造を決定。江川英龍が指揮を執る
1854 年第一・第二・第三などが完成。ペリー再来航と日米和親条約
1850 年代後半資金難で残りの台場は打ち切り。海防の重心が艦隊建設へ移る
1857 年江川英龍が没する。韮山反射炉は死後に完成
明治以降大半の台場が撤去・埋め立て。第三・第六が残る

よくある質問

お台場の名前の由来は何ですか。

幕末に品川沖へ築かれた砲台(台場)に由来します。「台場」に敬意の「お」が付いた呼び方です。

お台場は誰が作ったのですか。

江戸幕府が、伊豆韮山の代官で西洋砲術家の江川英龍に設計と指揮を任せて築きました。

台場は何基あったのですか。

十一基以上が計画されましたが、完成したのは 5 基です。資金難で残りは打ち切られました。

お台場は戦争で使われたのですか。

砲撃に使われた記録はありません。実戦を経験しないまま役目を終えました。

今も台場は残っていますか。

第三台場が台場公園として公開され、第六台場が非公開のまま保存されています。どちらも国の史跡です。

黒船の経緯は黒船来航、海軍建設の流れは長崎海軍伝習所の記事をご覧ください。

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