幕末の偉人

佐川官兵衛とは?鬼官兵衛と呼ばれた会津の家老の生涯と最期を解説

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佐川官兵衛とは?鬼官兵衛と呼ばれた会津の家老の生涯と最期を解説

会津藩に、鬼官兵衛と呼ばれた勇将がいます。佐川官兵衛。会津藩の家老です。

目次

佐川官兵衛とは何をした人か

官兵衛は、会津藩の家老であり、武人でした。

その生涯は、二つの戦争によって語られます。一つは会津戦争。もう一つは、それから九年後の西南戦争です。会津で新政府軍と戦い、そして最後は新政府の側の兵として西南戦争で戦死しました。敵として戦った軍に、後には身を投じたことになります。

天保 2 年(1831 年)、会津藩士の家に生まれます。

鬼官兵衛

官兵衛の名を決定づけたのは、会津戦争での戦いぶりです。

慶応 4 年(1868 年)、新政府軍が会津へ攻め込みました。会津は鶴ヶ城に籠って抵抗します。このとき、前線で新政府軍と激しく戦ったのが官兵衛でした。

彼の戦い方は、猛烈なものでした。退かず、攻めに攻める。その戦いぶりから、のちに鬼官兵衛と呼ばれるようになったと伝えられます。会津藩兵のなかでも、とりわけ勇猛な指揮官として知られました。

もっとも、勇猛さは、会津の悲劇を防ぐことはできませんでした。約一か月の籠城の末、会津は降伏します。白虎隊の悲劇や中野竹子らの戦死、西郷頼母一族の自刃——多くの悲劇のなかで、会津は敗れました。

朝敵の汚名

降伏後の会津藩士たちは、過酷な扱いを受けました。

藩は解体され、旧藩士の多くは北の斗南へ移されます。やせた土地での生活は苦しく、餓死する者も出ました。そして何より、会津の人々を苦しめたのは、朝敵という汚名でした。

会津は、松平容保京都守護職として天皇に忠義を尽くしたつもりでいました。それが、天皇の敵とされたのです。この汚名を晴らしたい、という思いは、会津の旧藩士たちに共通するものでした。

官兵衛もまた、その一人でした。

警視隊へ

明治になり、官兵衛は新政府の警察組織に出仕します。警視庁の警察官です。

会津で新政府軍と死力を尽くして戦った男が、その新政府に仕える。奇妙に見えますが、そこには会津人としての計算がありました。武功をあげて認められれば、朝敵とされた会津の名誉を、いくらかでも回復できるかもしれない。多くの旧会津藩士が、同じ思いで警察に身を投じています。

西南戦争と最期

明治 10 年(1877 年)、西南戦争が起こります。西郷隆盛を担いだ薩摩の士族が、政府に反旗を翻したのです。

政府は、警視隊を九州へ送りました。旧会津藩士を多く含む警察の部隊です(田原坂で知られる抜刀隊は、そのなかから臨時に編成された小部隊です)。官兵衛は、豊後口方面の警視隊を率いて出征しました。

かつて会津を攻めた側の中心が薩摩でした。その薩摩が、今度は政府に反旗を翻している。官兵衛にとって、これは因縁の相手との戦いでもありました。

そして明治 10 年 3 月、官兵衛は九州の戦場で銃弾を受け、戦死します。満 45 歳(数えで 47)でした。

会津で新政府軍と戦い、その新政府の兵として、かつて会津を攻めた薩摩と戦って死ぬ。官兵衛の生涯は、幕末から明治への転変を、一人の武人の身の上で凝縮しています。

佐川官兵衛の評価

官兵衛は、会津では今も敬愛される人物です。

朝敵の汚名を背負いながら、それでも武人として生き、名誉のために戦って死んだ。その姿は、会津人の誇りとして語り継がれてきました。戦死した地の熊本県には、彼を悼む碑が建てられています。

鬼官兵衛と呼ばれた勇将が、最後は会津の名誉を背負って散った——その一貫した生き方が、官兵衛という人物を印象深いものにしています。

佐川官兵衛の年表

出来事
1831 年会津藩士の家に生まれる
1868 年会津戦争で奮戦。のちに鬼官兵衛と呼ばれる
明治初期警視庁に出仕
1877 年西南戦争に警視隊として出征。九州で戦死。満 45 歳

会津の戦いは会津藩、藩主は松平容保、西南戦争については桐野利秋で扱っています。

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