幕末の偉人

中野竹子とは?薙刀で戦い散った娘子隊の生涯と墓・子孫

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中野竹子とは?薙刀で戦い散った娘子隊の生涯と墓・子孫

会津の戦場で、薙刀を取って戦った女性たちがいます。その先頭にいたのが中野竹子でした。二十歳前後で戦死しています。

目次

中野竹子とは何をした人か

竹子は、会津戦争において武器を取って戦った女性の代表的な存在です。

会津藩士・中野平内の娘として江戸に生まれました。父は江戸詰めの藩士で、竹子は江戸で育っています。生年には弘化 3 年(1846 年)・弘化 4 年(1847 年)・嘉永 3 年(1850 年)などの説があり、確定していません。 そのため没年齢も 18・21・22 のいずれとも言われます。

学問と武芸の双方に優れていたと伝えられます。読み書きに通じ、薙刀を修めました。武家の女性が薙刀を学ぶことは珍しくありませんでしたが、竹子はその腕が際立っていたとされ、若くして人に教える立場にあったといいます。

娘子隊

慶応 4 年(1868 年)、戊辰戦争の戦火が会津に及びます。

新政府軍が城下へ迫るなか、竹子は母・こう子、妹・優子とともに戦列に加わろうとしました。しかし女性が戦うことは、藩の側が認めませんでした。城に入って負傷者の世話をするか、退避するかが求められる立場です。

それでも彼女たちは引き下がらず、独自に一隊を組んで戦場へ向かいます。この女性たちの一団が、のちに娘子隊と呼ばれるようになりました。

正式な部隊ではありません。 藩の編成表に載る組織ではなく、自ら出た者たちの集まりです。名称も後年に定着したもので、当時からそう呼ばれていたわけではないとされます。

涙橋の戦い

慶応 4 年 8 月(西暦では 1868 年 10 月)、竹子たちは会津坂下から城下へ向かう途中、新政府軍と遭遇します。

竹子は薙刀を振るって戦い、銃弾を受けました。

薙刀と銃です。接近して戦う武器と、離れて撃つ武器がぶつかれば、結果は見えています。 幕末の戦場が何に変わっていたのかを、この一戦は端的に示しています。

致命傷を負った竹子は、敵に首を渡すまいとして、妹の優子に介錯を頼んだと伝えられます。ただし実際に首を落としたのが誰かについては異説があり、優子が果たしたとする伝えのほか、居合わせた会津方の者が行ったとする伝えもあります。

首は戦場から運び出され、法界寺に葬られました。

中野竹子の墓

竹子の墓は、福島県河沼郡会津坂下町の法界寺にあります。

妹が首を運んで葬ったとされる場所で、現在も墓所として守られています。近くには彼女が倒れた地とされる場所もあり、会津の戦跡をたどる道筋のひとつになっています。

中野竹子の子孫について

竹子について、しばしば「子孫」が検索されます。

しかし竹子は未婚のまま戦死しており、その直系の子孫はいません。

一方、妹の優子は生き延びました。姉の最期に立ち会った優子はのちに家庭を持ち、明治を生きています。中野家そのものは続いており、竹子について語り継いできたのはこの妹の側でした。

姉が戦って死に、妹が生きて伝えた。 竹子の名が残っているのは、優子が生き延びたからでもあります。

語られ方について

竹子は「会津のジャンヌ・ダルク」といった呼ばれ方をすることがあります。

ただし、こうした形容や、彼女の最期をめぐる細かな描写には、後年の顕彰や読み物によって整えられた部分が含まれます。同時代の一次記録は多くありません。

確かなのは、戦うことを許されなかった立場の女性が、自ら出て行って戦い、銃弾に倒れたという骨格の部分です。生年すら定まっていないことが、記録の乏しさを物語ります。

中野竹子の年表

出来事
生年に諸説会津藩士・中野平内の娘として江戸に生まれる(1846・1847・1850 年説)
幼少期〜学問と薙刀を修め、人に教える立場となる
1868 年戊辰戦争が会津に及ぶ。母・妹とともに戦列へ
1868 年 10 月慶応 4 年 8 月 25 日、会津坂下付近で交戦し戦死

会津の戦いは会津藩、同じ会津の女性としては新島八重も知られています。

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