西郷頼母とは?一族21人の自刃はなぜ起きたのかを解説

会津の悲劇のなかで、最も重い出来事の一つが、この人の家で起きました。西郷頼母。会津藩の家老です。
目次
西郷頼母とは何をした人か
頼母は会津藩の家老であり、幕末の藩論において、一貫して「引くべきだ」と主張し続けた人物です。
その主張は二度、決定的な場面で退けられました。一度目は京都守護職への就任に反対したとき、二度目は白河口で敗れたのち、恭順と開城を説いたときです。二度とも、彼の懸念したとおりのことが起きました。
天保元年(1830 年)、会津藩の家老の家に生まれます。西郷家は代々家老を務める、藩でも最上級の家柄でした。
京都守護職に反対する
文久 2 年(1862 年)、幕府は会津藩主・松平容保を京都守護職に任じようとします。
荒れる京都の治安を、会津の兵で担わせようという構想です。名誉ではありますが、実態は火中の栗を拾う役でした。
頼母はこれに強く反対します。 京都に藩の力を注ぎ込めば、会津の財政は破綻する。そして各方面の恨みを一身に買うことになる――そうした趣旨の諫言を、藩主に繰り返しました。
しかし容保は引き受けます。会津には徳川家への忠義を家訓とする伝統があり、断るという選択肢が事実上ありませんでした。
反対し続けた頼母はやがて容れられなくなり、家老の職を解かれて蟄居させられます。
そして彼が予測したとおり、会津は京都で新選組を預かり、尊王攘夷派の恨みを集め、戊辰戦争では朝敵とされることになりました。
会津戦争と、開城の主張
戦争が始まると、頼母は呼び戻されます。白河口の総督として前線を任されました。
しかし白河口で敗れ、その責を問われます。さらに彼は、戦いを続けるべきではないと主張しました。 勝ち目はなく、恭順して城を開くべきだと説いたのです。
これも受け入れられませんでした。徹底抗戦こそが忠義だとする空気のなかで、開城を説く者は敗北主義者とみなされます。
一族 21 人の自刃
慶応 4 年(1868 年)8 月、新政府軍が会津の城下に突入します。
このとき、城の近くにあった西郷邸で、頼母の一族 21 人が命を絶ちました。 妻の千重子、母、姉妹、そして幼い娘たちまでが含まれています。幼い子らは自ら死ぬことができず、母である千重子の手にかかったと伝えられます。
なぜ集団自決が起きたのか
理由は一つではありません。
第一に、当時の武家の女性たちが置かれていた価値観です。 敵に捕らわれて辱めを受けるくらいなら死を選ぶという考えが、家の名誉と結びついて共有されていました。
第二に、足手まといにならないという判断です。 城に籠って戦う男たちにとって、家族が城外に残ることは負担になります。自ら退場することで、戦う者に専念させるという発想がありました。
第三に、家老の家であるという立場です。 藩の中枢にある家として率先して示さねばならないという圧力があった、という見方があります。ただしこれは後世の解釈であり、当人たちがそう書き残しているわけではありません。
そして頼母自身は、その場にいませんでした。 彼はこのとき長男の吉十郎とともに登城しており、家族の最期に立ち会っていません。引くべきだと言い続けた男の家族が、最も激しい形で死んだことになります。
生き延びたあと
会津降伏後、頼母は北へ逃れ、榎本武揚らとともに箱館で戦いました。そこでも敗れて捕らえられ、投獄されます。
放免後は名を保科頼母と改め、神職として生きました。日光や福島の神社に奉職しています。武士としてではなく、神に仕える者として残りの人生を送ったわけです。
養子に迎えた西郷四郎は、講道館柔道の名手として知られ、小説『姿三四郎』のモデルとされる人物です。頼母自身が武術に通じていたとする伝えもありますが、その内容には後世の脚色が多く含まれます。
晩年は会津に戻り、明治 36 年(1903 年)に死去。満 72 歳でした。
家族を失ってから、35 年を生きたことになります。
西郷頼母の子孫
頼母の血筋については、しばしば「子孫の現在」が調べられています。
一族 21 人がこのとき失われたこともあり、直系の状況は複雑です。養子に入った西郷四郎も、頼母の血を引く人物ではありません。会津の家々の系譜は戊辰戦争で大きく断たれており、西郷家もその例外ではありませんでした。
会津若松には西郷邸を再現した展示があり、自刃の場面が伝えられています。
西郷頼母の年表
| 年 | 出来事 |
|---|---|
| 1830 年 | 会津藩家老の家に生まれる |
| 1862 年 | 京都守護職就任に反対する。のちに免職・蟄居となる |
| 1868 年 | 戊辰戦争で復帰。白河口総督となるが敗れる |
| 1868 年 8 月 | 会津戦争。西郷邸で一族 21 人が命を絶つ |
| 1869 年 | 箱館で戦い、敗れて捕らえられる |
| 明治期 | 保科頼母と改名し、神職として過ごす |
| 1903 年 | 会津で死去。満 72 歳 |
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