幕末の文化

種痘とは?江戸の天然痘対策と西洋医学のはじまりを解説

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種痘とは?江戸の天然痘対策と西洋医学のはじまりを解説
『解体新書』扉絵(1774) / 出典: Wikimedia Commons PD-old

種痘は、天然痘を防ぐための接種です。日本の西洋医学は、この一点から制度になりました。

目次

種痘とは何か

種痘とは、天然痘(疱瘡)にかからないよう、あらかじめ軽い感染を起こさせる予防接種です。

項目内容
対象の病気天然痘(疱瘡)。致死率が高く、治っても顔にあばたが残った
古い方法人痘法——天然痘患者の膿を使う。効くが危険
新しい方法牛痘法——牛の病気の膿を使う。ジェンナーが 1796 年に確立
日本への到達嘉永 2 年(1849 年)、長崎に牛痘苗が届く
広めた人々蘭方医と、それを支援した藩

天然痘は、江戸時代の日本で最も恐れられた病気のひとつでした。「疱瘡は器量定め」——助かるかどうか、顔が残るかどうかがこの病で決まる、という言い方があったほどです。

牛痘はどのように日本へ入ったのか

嘉永 2 年(1849 年)、オランダ商館医モーニッケが牛痘苗を長崎へ持ち込みます。

ここで問題になったのが苗の保存でした。当時、痘苗(種痘に使う膿)は生きた状態でなければ使えません。長い航海の間に効力を失うことが多く、何度も失敗しています。

成功したのは、長崎の医師・楢林宗建が自分の子に接種した例でした。ここから「接種した子のかさぶたを次の子へ」という形で、人から人へ苗をつないで全国へ広げていきます。

苗をつなぐには、途切れなく接種を続けなければなりません。 つまり種痘の普及とは、医学の問題であると同時に物流と組織の問題でした。

誰が種痘を広めたのか

藩ぐるみで動いた例。 佐賀藩主鍋島直正は、いち早く藩内での種痘に取り組みました。自分の世子にも接種させています。 藩主の子が受けたという事実そのものが、民衆の不安を解く材料になりました。

都市で拠点を作った例。 大坂では緒方洪庵除痘館を開き、適塾の門人たちを各地へ送って接種の網を広げました。

江戸では、蘭方医が共同で資金を出し合いました。 安政 5 年(1858 年)、伊東玄朴ら八十人余りの蘭方医が資金を出してお玉ヶ池種痘所を設けます。

当時、幕府の医学の主流は漢方でした。 蘭方は制度の外側にあり、種痘所も最初は民間の施設です。

ところが状況が変わります。種痘所は幕府直轄となり、やがて西洋医学所と改称。ここから東京大学医学部へつながっていきます。

外側にいた蘭方医が、種痘という一点の実績で制度の中心に入ったわけです。緒方洪庵が文久 2 年(1862 年)に幕府の奥医師兼西洋医学所頭取として江戸へ招かれたのも、この流れの中の出来事でした。

種痘のほかに何が変わったのか

コレラ。 安政 5 年(1858 年)、開港とほぼ同時にコレラが大流行します。洪庵は治療の手引きを著し、対応にあたりました。感染症を「うつる病」として扱い、対策を文書で共有するという考え方が、この時期に広がります。

外科と解剖。 杉田玄白らの『解体新書』(1774 年)以来の蓄積が、戦場の外科へ応用されました。戊辰戦争では西洋式の治療が実戦で使われています。

医師の制度。 明治になると医師は西洋医学を修めることが要件となり、漢方と蘭方の位置が完全に入れ替わりました。 幕末に種痘を担った人々が、そのまま新しい医学教育の担い手になります。

種痘と西洋医学の年表

出来事
1774 年杉田玄白らの『解体新書』が刊行される
1796 年ジェンナーが牛痘接種を確立(イギリス)
1823 年シーボルトが来日し、長崎で医学を教える
1849 年牛痘苗が長崎に届き、接種に成功。緒方洪庵が大坂に除痘館を開く
1850 年代佐賀藩など各藩が種痘を進める。人から人へ苗をつなぐ網が広がる
1858 年江戸にお玉ヶ池種痘所が開設。コレラが大流行する
1860 年代種痘所が幕府直轄となり、西洋医学所へ。東京大学医学部の源流になる
1862 年緒方洪庵が江戸に招かれる

よくある質問

種痘とは何ですか。

天然痘を予防するための接種です。牛の病気(牛痘)の膿を使う牛痘法が主流になりました。

種痘はいつ日本に入ったのですか。

嘉永 2 年(1849 年)に牛痘苗が長崎へ届き、接種に成功しました。

誰が種痘を広めたのですか。

長崎の楢林宗建、大坂の緒方洪庵、江戸の伊東玄朴ら蘭方医と、鍋島直正の佐賀藩のように藩ぐるみで進めた例があります。

なぜ普及に時間がかかったのですか。

痘苗が生きていないと使えず、輸送で失活したためです。接種した子から次の子へ苗をつなぐ必要もあり、途切れると止まってしまいました。

種痘は西洋医学にどうつながったのですか。

江戸のお玉ヶ池種痘所が幕府直轄の西洋医学所となり、のちの東京大学医学部の源流になりました。

蘭学の全体像は蘭学と適塾、中心人物は緒方洪庵の記事をご覧ください。

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