楢崎龍とは?坂本龍馬の妻おりょうの生涯と死後を解説

坂本龍馬の妻、おりょうです。龍馬とともに語られることの多い女性ですが、その生涯の大半は、龍馬なき後のものでした。
目次
楢崎龍とは何をした人か
おりょうを一躍有名にしたのは、龍馬の命を救った一件です。
寺田屋という京都・伏見の宿で、龍馬が幕吏に襲われたとき、風呂に入っていたおりょうが異変に気づき、裸のまま二階へ駆け上がって龍馬に危険を知らせたと伝えられます。この機転で龍馬は難を逃れました。
もう一つ、彼女の名を残しているのが、日本初の新婚旅行とされる薩摩への旅です。
天保 12 年(1841 年)、京都の生まれ。父は医師でしたが、安政の大獄に連座して失脚し、一家は困窮しました。
龍馬との出会い
父を失ったおりょうの一家は、生活に苦しみます。妹たちが売られそうになるのを、おりょうが身を張って取り戻したという逸話も伝わります。気の強い女性として語られる背景には、こうした境遇があります。
京都で龍馬と出会い、二人は結ばれました。正式な婚姻の形がどこまで整っていたかについては諸説ありますが、龍馬がおりょうを妻として扱っていたことは、彼の手紙などからうかがえます。
寺田屋事件
慶応 2 年(1866 年)、薩長同盟の成立に関わった龍馬は、京都・伏見の寺田屋に泊まっていました。
深夜、幕府側の捕吏が宿を囲みます。
このとき風呂にいたおりょうが物音に気づき、危険を察して龍馬に知らせたとされます。龍馬は応戦して負傷しながらも脱出しました。
妻の機転が、夫の命をつないだ――この一件が、おりょうの名を後世に残しました。
なお、細部については後年の回想や読み物で膨らんだ部分もあり、すべてが同時代の記録で裏づけられているわけではありません。ただ、おりょうが危機を知らせたという骨格は、龍馬自身の書き残したものにも見えます。
「日本初の新婚旅行」
寺田屋で負傷した龍馬は、療養を兼ねて薩摩へ向かいます。おりょうも同行しました。
二人は薩摩の温泉に滞在し、霧島の山にも登ったと伝えられます。この旅を、後年「日本で最初の新婚旅行」と呼ぶようになりました。
厳密にそう呼べるかは言葉の問題ですが、幕末の動乱のなかで、夫婦が湯治と登山に出かけたという記録は、たしかに珍しく、明るいものです。龍馬の生涯のなかでも、数少ない穏やかな時間でした。
龍馬の死後
慶応 3 年(1867 年)、龍馬は京都で暗殺されます。おりょうは、最大の支えを失いました。
ここから、彼女の後半生が始まります。そしてそれは、流転の日々でした。
龍馬の実家である坂本家に身を寄せますが、家族とうまくいかず、離れます。頼る先を転々とし、生活は安定しませんでした。「坂本龍馬の妻」という肩書きは、彼女の暮らしを支えてはくれなかったのです。
のちに別の男性と再婚し、西村ツルと名を改めて横須賀で暮らしました。晩年は貧しく、龍馬との日々を語りながら過ごしたと伝えられます。
明治 39 年(1906 年)、横須賀で死去。満 64 歳でした。龍馬の死から 38 年余りが経っていました。
楢崎龍の墓
おりょうの墓は、神奈川県横須賀市の信楽寺にあります。
墓石には「贈正四位坂本龍馬之妻龍子之墓」と刻まれています。再婚して西村ツルとなった彼女の墓に、坂本龍馬の妻と記されているわけです。晩年を知る人々が、彼女を龍馬の妻として送ったことを示しています。
龍馬とともに過ごしたのは数年、その後は再婚を経て 38 年余り。 それでも墓に刻まれたのは、龍馬の妻という一言でした。
楢崎龍の年表
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