幕末の偉人

大山巌とは?妻・捨松との結婚と、西郷と戦った生涯を解説

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大山巌とは?妻・捨松との結婚と、西郷と戦った生涯を解説
大山巌 肖像写真(米国議会図書館所蔵) / 出典: Wikimedia Commons Public domain

薩摩に生まれ、西郷隆盛の従弟でありながら、西郷と戦った男がいます。大山巌。そして彼の妻は、薩摩藩兵が主力を担った新政府軍に敗れた、会津の家老の娘でした。

目次

大山巌は何をした人か

大山は、日本陸軍を作り上げた中心人物の一人です。

若い頃は砲術を専門としました。戊辰戦争では自ら改良に関わった大砲を用い、以後も一貫して兵器と軍制の近代化に携わります。

陸軍卿・陸軍大臣を務め、日清戦争では軍を率い、日露戦争では満洲軍総司令官として全軍を統括しました。最終的に元帥陸軍大将、公爵にまで上っています。

薩摩の加治屋町から

天保 13 年(1842 年)、薩摩藩の鹿児島城下、加治屋町の生まれ。ここは西郷隆盛大久保利通らを輩出した、異様なほど人材の集中した一帯です。

大山は西郷兄弟の従弟にあたります。幼少期から同じ町内で育った身内でした。

薩英戦争で英国艦隊の砲撃を経験したことが、彼を砲術へ向かわせます。江戸で洋式砲術を学び、戊辰戦争では砲兵として各地を転戦しました。

西郷と戦う

明治 3 年(1870 年)、大山はヨーロッパへ渡ります。折しも普仏戦争の最中で、近代戦を実地で観察するという得がたい機会を得ました。数年にわたる滞在で軍制を学び、帰国後は陸軍の整備にあたります。

そして明治 10 年(1877 年)、西南戦争が起こりました。反乱軍を率いるのは、従兄の西郷隆盛です。

大山は政府軍の側で戦いました。 同じ町で育った身内に砲を向けたことになります。この戦いで西郷は死に、士族の反乱の時代は終わりました。

彼が後年、西郷について多くを語らなかったことはよく知られています。

妻・山川捨松

大山の名で最も検索されるのは、実は本人ではなくについてです。

先妻と死別したのち、大山が再婚した相手は山川捨松。会津藩家老・山川家の娘でした。

「捨松」という名

彼女はもと「咲子」といいました。明治 4 年(1871 年)、11 歳で岩倉使節団に随行してアメリカへ留学することが決まったとき、母が名を改めます。

一度は捨てたつもりで、帰りを待つ。 そこから「捨松」と名づけられたと伝えられます。

日本人女性初の大学卒業生

捨松はアメリカで 10 年余りを過ごし、ヴァッサー大学を卒業しました。日本人女性として初の大学卒業者です。同じ使節団で渡米した留学生には、のちに女子教育に生涯を捧げる津田梅子がいました。

英語もフランス語も操り、西洋の社交に通じた女性として帰国します。

会津の娘と、薩摩の将

この結婚には、猛烈な反対がありました。

会津にとって薩摩は、戊辰戦争で城を攻めた新政府軍の主力であり、藩を解体した側の中心です。捨松の一族は籠城戦を戦い抜いた当事者でした。その娘が、薩摩の軍人に嫁ぐ。

それでも二人は結婚します。攻めた側と、攻められた側の家が、明治の中枢で一つになったわけです。

捨松は鹿鳴館の時代に社交の中心となり、看護婦の養成や慈善事業にも力を注ぎました。日本の近代化の、最も目に見える場所に立った女性の一人です。

日露戦争と最期

明治 37 年(1904 年)に始まった日露戦争で、大山は満洲軍総司令官に就きます。実際の作戦は児玉源太郎らが担い、大山は全体を任せて動じないという指揮のかたちを取りました。

細かく口を出さず、部下に委ね、責任だけを引き受ける。この「大きく構える」姿勢は、彼の人物評として繰り返し語られるところです。

大正 5 年(1916 年)に死去、74 歳。妻の捨松はその 3 年後に世を去りました。

大山巌の年表

出来事
1842 年薩摩藩・加治屋町に生まれる。西郷兄弟の従弟
1863 年薩英戦争を経験し、砲術を志す
1868 年戊辰戦争に砲兵として従軍
1870 年ヨーロッパへ渡り、普仏戦争を観察
1877 年西南戦争。政府軍として従兄・西郷と戦う
1883 年山川捨松と結婚
1894 年日清戦争に出征
1904 年日露戦争で満洲軍総司令官
1916 年死去。74 歳

薩摩の人々は西郷隆盛大久保利通、会津の側は会津藩で扱っています。

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