幕末の偉人

ジョン万次郎とは?漂流からアメリカへ渡った土佐の漁師の生涯

約5分で読めます
ジョン万次郎とは?漂流からアメリカへ渡った土佐の漁師の生涯
中浜万次郎 肖像写真(1880 年頃・ミリセント図書館所蔵) / 出典: Wikimedia Commons Public domain

黒船が来る 12 年も前に、太平洋を越えてアメリカで学んだ日本人がいました。土佐の漁師の子・ジョン万次郎、のちの中浜万次郎です。

目次

ジョン万次郎とは何をした人か

ひとことで言えば、日本が開国する前にアメリカ本土で教育を受け、その社会を内側から知っていた、ごく少数の日本人の一人でした。同じように漂流からアメリカへ渡った浜田彦蔵(ジョセフ・ヒコ)のような例もありますが、いずれにせよ例外的な経歴です。

万次郎は漂流の末にアメリカへ渡り、現地の学校で英語・数学・測量・航海術・造船を学びます。帰国後はその知識を買われて土佐藩士となり、さらに幕府に取り立てられました。黒船来航で日本が対応を迫られたとき、アメリカの実情を語れる人物として重んじられたのです。

漂流民という出自から、幕末の中枢へ。身分制の厳しい時代にあって、これは異例中の異例でした。

漂流と鳥島の 143 日

天保 12 年(1841 年)、14 歳の万次郎は仲間 4 人と漁に出て、暴風に遭って流されます。たどり着いたのは伊豆諸島の南に浮かぶ無人島・鳥島でした。

水も食料もほとんどない岩の島で、5 人は 143 日を生き延びます。アホウドリを捕らえ、わずかな雨水をためての日々でした。

そこへ通りかかったのが、アメリカの捕鯨船ジョン・ハウランド号です。船長ウィリアム・ホイットフィールドは 5 人を救い上げました。「ジョン万次郎」という呼び名は、この船の名に由来します。

アメリカで学んだ 10 年

仲間はハワイで下船しましたが、万次郎だけは船長に見込まれ、そのままアメリカ本土へ渡りました。マサチューセッツ州フェアヘブン。捕鯨で栄えた港町です。

ホイットフィールドは万次郎を自分の家に迎え、学校へ通わせました。バートレット・アカデミーで航海術と測量、造船を学び、成績は上位だったと伝わります。日本人としてアメリカの学校教育を受けた、最初期の一人でした。

学業を終えた万次郎は捕鯨船に乗り組み、世界の海を回ります。人望を得て、乗組員の互選で副船長格に就いたとも伝えられます。

そして帰国資金を得るため、当時沸き立っていたカリフォルニアの金鉱へ向かいました。

帰国と、土佐藩から幕府へ

嘉永 4 年(1851 年)、万次郎は琉球に上陸します。鎖国下の日本で、海外帰りの漂流民は当然ながら厳しい取り調べを受けました。薩摩、長崎と送られ、土佐へ帰り着いたのは翌年のことです。

しかし取り調べで語られた見聞は、そのまま貴重な情報でした。土佐藩は万次郎を士分に取り立て、藩校の教授に据えます。このとき絵師・河田小龍が万次郎から聞き取ってまとめたのが『漂巽紀略』で、海の向こうの世界を伝える記録として藩内で読まれました。

坂本龍馬が海と船に開かれていった背景に、この河田小龍を通じた海外知識があったとする見方もあります。ただし万次郎と龍馬が直接語り合ったことを示す確かな記録はありません

黒船来航の翌年、万次郎は幕府に召し出され、旗本格に取り立てられました。生まれ故郷の村の名から中浜の姓を与えられます。漁師の子が、幕臣になったのです。

ジョン万次郎の英語

万次郎の英語は、教室ではなく甲板と生活の中で身につけたものでした。だからこそ実用的で、耳で覚えた音に忠実でした。

彼が著した『英米対話捷径』は、日本人が書いた最初期の英会話教本とされます。特徴的なのは、英語の発音をカタカナで写し取った点です。water を「ワーター」ではなく実際の響きに近い形で書くなど、綴りではなく音から入る姿勢が貫かれています。

学者の英語ではなく、通じる英語。開国直後の日本にとって、これはきわめて実践的な財産でした。

咸臨丸とその後

万延元年(1860 年)、幕府の使節がアメリカへ渡ることになります。随行艦咸臨丸に、万次郎は通訳兼技術指導として乗り組みました。艦には勝海舟福沢諭吉の姿もあります。

荒天の続いた航海で、実際に船を動かしたのは限られた者たちでした。太平洋の航海術を実地で知る万次郎の存在は、この渡航を支えた要素の一つです。

明治に入ってからは、開成学校(のちの東京大学につながる学校)の教授を務めました。普仏戦争の視察でヨーロッパへ渡った折には、アメリカに立ち寄って恩人ホイットフィールドと再会しています。

晩年は病を得て静かに過ごし、明治 31 年(1898 年)に東京で亡くなりました。71 歳。墓は東京の雑司ヶ谷霊園にあります。

ジョン万次郎の子孫と、今も続く縁

万次郎の家系は続いています。長男の中浜東一郎は医師となり、以後も子孫が万次郎の記録の整理や顕彰に関わってきました。

特筆すべきは、ホイットフィールド家と中浜家の交流が世代を越えて続いていることです。万次郎を救い、家に迎え入れた船長の子孫と、救われた漁師の子の子孫が、150 年以上のちも行き来を重ねています。

この縁は自治体にも及び、万次郎の生地である高知県土佐清水市と、彼が学んだマサチューセッツ州フェアヘブンは姉妹都市の関係を結んでいます。

ジョン万次郎の年表

出来事
1827 年土佐国中ノ浜村(現在の高知県土佐清水市)に漁師の子として生まれる
1841 年漁に出て漂流。鳥島に漂着し、143 日後に米捕鯨船に救助される
1843 年頃マサチューセッツ州フェアヘブンで学校に通う
1846 年頃捕鯨船に乗り組み、世界の海を回る
1849 年カリフォルニアの金鉱で帰国資金を得る
1851 年琉球に上陸。取り調べを経て翌年土佐へ帰着
1853 年黒船来航。翌年、幕府に召し出され中浜姓を与えられる
1860 年咸臨丸で渡米
1870 年普仏戦争視察に随行し渡欧。途中でホイットフィールドと再会
1898 年東京で死去。71 歳

同じ時代に海を越えた人々の歩みは、黒船来航と開国幕末の偉人からたどれます。

あわせて読みたい