幕末の写真術 — 銀板と湿板がとらえた侍たちの素顔

私たちが思い浮かべる幕末の志士たちの顔——その多くは、当時撮られた一枚の写真によって伝えられている。絵巻や肖像画の時代から、機械が人の姿をそのまま写し取る時代へ。写真術の渡来は、幕末という時代を語るうえで欠かせない文化の転換点だった。
目次
開国前後に伝わった新技術
写真技術そのものは、一八三九年にフランスでダゲレオタイプ(銀板写真)として公表された、ごく新しい発明だった。日本へは、ペリーの黒船来航に先立つ一八四〇年代の終わりごろ、長崎を通じて早くも撮影機材がもたらされていたと伝えられる。西洋の最新技術は、開国の前後を通じて少しずつ日本に根を下ろしていった。
銀板に直接像を定着させるダゲレオタイプは、一枚ものでしか残せず扱いも難しかった。やがて、ガラス板に感光剤を塗って撮影する湿板写真(コロジオン法)が広まると、一枚の原板から複数の紙焼きを作れるようになり、写真は一気に身近なものになっていった。
先駆者・上野彦馬と下岡蓮杖
日本人の写真師として名高いのが、長崎の上野彦馬と、横浜の下岡蓮杖である。
上野彦馬は化学を学んだのち、長崎に写真館(撮影局)を開いた。彼の写真館には、長崎を訪れた多くの志士や要人が足を運んだと伝えられる。一方の下岡蓮杖は、苦心の末に写真術を習得し、横浜で営業写真館を営んだ。二人はそれぞれ西と東で、写真という新しい文化を根づかせた草分けだった。
このほか、フェリーチェ・ベアトをはじめとする外国人写真家たちも、幕末の日本の風景や風俗を数多く撮影し、貴重な記録を残している。
志士たちの肖像が生まれる
坂本龍馬の、台に肘をついて立つ有名な肖像写真は、長崎の上野彦馬の撮影局で撮られたものと伝えられている。当時の写真は露光に時間がかかったため、被写体は長いあいだじっと静止していなければならなかった。あの凛とした立ち姿の背後には、そうした技術的な事情もあった。
写真に写ることは、当時の人々にとって特別な体験だったに違いない。自分の姿が「そのまま」記録され、紙の上に残る——絵師の筆を介さずに像が得られるという感覚は、文明開化の到来を実感させる出来事でもあった。
写真が残したもの
幕末から明治にかけて撮られた写真は、今日の私たちにとって、その時代を知る一次史料となっている。人物の表情、衣服や髪型、街並みや建物——文章や絵だけでは伝わらない細部が、写真には焼きついている。
ただし、写真もまた「撮る側の意図」によって構成された記録であることは忘れてはならない。誰が、何のために、どんな姿を写したのか。そうした背景まで含めて読み解くことで、幕末の写真は時代の証言としていっそう豊かに語りかけてくる。
写真に写された志士たちの生涯は、幕末の偉人の記事でひとりずつ掘り下げています。幕末に芽吹いたほかの文化は、幕末の文化の一覧からどうぞ。
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