幕末の偉人

滝沢馬琴とは?二十八年かけて八犬伝を書いた戯作者の生涯

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滝沢馬琴とは?二十八年かけて八犬伝を書いた戯作者の生涯
曲亭馬琴 肖像(1767〜1848) / 出典: Wikimedia Commons Public domain

一つの小説を、二十八年かけて書き続けた男がいます。滝沢馬琴。『南総里見八犬伝』の作者です。

目次

滝沢馬琴とは何をした人か

馬琴は、江戸後期の戯作者——今でいう小説家です。本名は滝沢興邦、のちに解と改めました。曲亭馬琴は号です。

その仕事は三つに集約されます。

第一に、『南総里見八犬伝』を書いたこと。 全 9 輯・106 冊・98 巻という長さで、完結までに二十八年かかりました。

第二に、約四百七十種の著作を残したこと。 生涯の量が桁違いです。

第三に、書くことで生計を立てたこと。 原稿料と書籍の売り上げを収入の中心に据えた点で、当時の作家として特異な位置にいます。

明和 4 年(1767 年)に江戸深川で生まれ、嘉永元年(1848 年)に没しました。

滝沢馬琴が黄表紙から読本へ進むまで

馬琴は、旗本の用人を父として江戸の深川に生まれました。武家に仕える立場の家です。

寛政 2 年(1790 年)、彼は山東京伝の門に入ります。京伝は当時の人気作家で、黄表紙——絵入りの短い読み物を書いていました。

馬琴も黄表紙から出発します。しかし彼が本領を見せたのは、読本でした。

読本は、絵よりも文章が主体の長編小説です。中国の白話小説の影響を受け、複雑な筋と多くの人物を扱います。「軽い読み物」から「長い物語」へ移ったわけです。

滝沢馬琴『南総里見八犬伝』の二十八年

文化 11 年(1814 年)、『南総里見八犬伝』の第一輯が刊行されます。

物語は、房総の里見家に仕える八人の犬士が、散らばった八つの玉を持って集まっていく、というものです。仁・義・礼・智・忠・信・孝・悌の徳を一人ずつ担った八人が、最後に一つの家のもとに揃う構成です。

原稿が完成したのは天保 12 年、最終巻が刊行されたのは天保 13 年——1841 年と 1842 年です。

二十八年です。第一輯を買った読者は、完結を読むころには初老になっています。作者自身は、刊行を始めたとき満 46 歳、原稿を書き終えたとき満 74 歳でした。

分量は全 9 輯・106 冊・98 巻長さも期間も、江戸文学のなかで際立っています。

滝沢馬琴は失明しても書き続けた

八犬伝の後半で、馬琴に問題が起きます。目が見えなくなったのです。

しかし彼は書くのをやめませんでした。口述して、他人に書き取らせるという方法に切り替えたのです。

書き取ったのは、息子の嫁でした。彼女はもともと文字を十分に書けなかったため、まず字を習わせてから口述筆記に当たらせたと伝えられます。

視力を失った作者が、字を教えた相手に語って、長編を完結させたことになります。

滝沢馬琴は原稿料で食えた最初の作家か

馬琴の位置がもう一つ特異なのは、生計の立て方です。

当時、戯作を書く人間の多くは本業を持っていました。武士、医師、商人。書くのは余技です。

馬琴は違いました。書籍の売り上げと、原稿の稿料を収入の中心に据えました。

これは版元との関係を、金銭の交渉として扱うことを意味します。「作品を売る」という感覚を持っていたわけです。

約四百七十種という著作数も、この姿勢と結びついています。書き続けなければ収入がないからです。

滝沢馬琴の最期

嘉永元年(1848 年)、馬琴は没しました。満 81 歳です。

最終巻の刊行から六年後にあたります。七十代なかばで長編を書き終え、そこから数年生きたことになります。

『南総里見八犬伝』は、その後も読まれ続けました。明治以降も繰り返し刊行され、現代の漫画やアニメにまで筋書きの型が受け継がれています。

八人の仲間が散らばった証を持って集まるという構成は、日本の物語の基本形の一つになりました。

滝沢馬琴の年表

出来事
1767 年江戸深川に生まれる(旗本の用人の子)
1790 年山東京伝の門に入り、黄表紙作家として出発
1800 年代読本へ転じる
1814 年満 46 歳で『南総里見八犬伝』第一輯を刊行
1830 年代視力を失い、口述筆記で執筆を続ける
1841 年満 74 歳で原稿を書き終える
1842 年最終巻が刊行され完結(全 9 輯・106 冊・98 巻、二十八年)
1848 年没。満 81 歳

同時代の戯作者は十返舎一九、挿絵を描いた絵師は葛飾北斎、江戸の出版と絵の世界は幕末の浮世絵で扱っています。

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