高野長英とは?脱獄して6年逃げた蘭学者の生涯を解説

終身刑の牢を脱し、6 年間逃げ続けた蘭学者がいます。高野長英です。
目次
高野長英とは何をした人か
長英は、江戸後期を代表する蘭学者・医師の一人です。
シーボルトのもとで学び、医学と西洋の知識を修めました。そして幕府の対外政策を批判したために、終身刑を科されます。
その後の逃亡生活が、彼の名を特別なものにしました。知識人が、国家に追われて逃げ続けたという点で、日本の近代以前には類のない生涯です。
文化元年(1804 年)、陸奥水沢(現在の岩手県奥州市)の生まれ。
高野長英の肖像

高野長英と鳴滝塾
長英は江戸で蘭学と医学を学んだのち、長崎へ向かいます。
そこで入ったのが、シーボルトの鳴滝塾でした。オランダ商館医として来日していたシーボルトが開いた塾で、全国から俊英が集まっていました。楠本イネの父にあたる人物です。
長英はここで頭角をあらわし、塾でも屈指の秀才とされました。
その後シーボルトが国外追放となる事件が起こりますが、長英はこれに連座せず、江戸に出て医業を開き、蘭学者として活動します。
高野長英『戊戌夢物語』とモリソン号事件
天保 8 年(1837 年)、モリソン号事件が起こります。
日本人漂流民を送り届けようとしたアメリカ船を、幕府が異国船打払令に基づいて砲撃し、追い返した一件です。
長英はこれを批判する文書『戊戌夢物語』を書きました。夢のなかの議論という体裁をとって、幕府の対応が国際的にどう見えるか、また打払いを続ければ日本がどうなるかを論じたものです。
同じ頃、渡辺崋山も同趣旨の文書を書いています。二人は同じ学者たちの集まりに属していました。
高野長英と蛮社の獄
天保 10 年(1839 年)、蛮社の獄が起こります。
蘭学に通じた者たちが、幕政を批判したとして摘発された事件です。長英も捕らえられました。
判決は永牢――終身刑です。渡辺崋山が在所での蟄居だったのに対し、長英は牢に入れられました。
高野長英の脱獄と逃亡
弘化元年(1844 年)、伝馬町の牢で火事が起こります。
当時の制度では、火事の際に囚人を一時的に解き放ち、後で戻らせる決まりがありました。長英は解き放たれたまま、戻りませんでした。
この火事は長英が仕組ませたものだとする説が有力です。牢の雑役に頼んで放火させたとされます。
以後、6 年にわたる逃亡が始まります。
この逃亡について、硝酸で顔を焼いて人相を変えたという有名な話が伝わります。ただしこれを裏づける同時代の記録はなく、真偽は分かっていません。逃亡そのものが 6 年に及んだことは確かで、身を隠すために相当のことをしたのは間違いないところです。
逃亡中も長英は学者であり続けました。宇和島藩に匿われ、西洋の兵書を翻訳しています。追われる身でありながら、藩に必要とされる知識人だったのです。
高野長英の最期と死因
嘉永 3 年 10 月(西暦では 1850 年 12 月)、長英は江戸の潜伏先で捕吏に囲まれます。
そこで死にました。 当時の裁許の記録の写しでは、捕縛の際に脇差で喉を突き、奉行所へ運ばれたのち死亡したとされます。これが史料上の中心となる説です。後年には別の見方も語られてきましたが、いずれも後からの異説です。満 46 歳でした。
蛮社の獄からは 11 年、脱獄からは 6 年が経っていました。そして黒船が来るのは、その 3 年後です。彼が警告した事態は、彼の死の直後に現実になりました。
高野長英の名誉回復と評価
長英は明治になって顕彰されます。明治 31 年(1898 年)に正四位を追贈され、名誉が回復されました。ただし永牢の判決そのものが法的に取り消されたわけではありません。
生地の岩手県奥州市には高野長英記念館があり、資料が展示されています。
高野長英の年表
| 年 | 出来事 |
|---|---|
| 1804 年 | 陸奥水沢(現在の岩手県奥州市)に生まれる |
| 1820 年代 | 江戸で蘭学と医学を学ぶ |
| 1825 年頃 | 長崎のシーボルト鳴滝塾に学ぶ |
| 1830 年代 | 江戸で医業を開き、蘭学者として活動 |
| 1838 年 | 『戊戌夢物語』を著し、幕府の対外政策を批判 |
| 1839 年 | 蛮社の獄で捕らえられ、永牢となる |
| 1844 年 | 牢の火事に乗じて脱獄 |
| 1840 年代後半 | 各地に潜伏しながら兵書を翻訳 |
| 1850 年 | 江戸で捕吏に囲まれ死去。満 46 歳 |
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