幕末の偉人

渡辺崋山とは?画家であり家老、蛮社の獄で散った生涯を解説

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渡辺崋山とは?画家であり家老、蛮社の獄で散った生涯を解説
「佐藤一斎像」渡辺崋山 筆(崋山の肖像画の代表作の一つ) / 出典: Wikimedia Commons Public domain

国宝の肖像画を描いた画家であり、同時に藩の家老でした。渡辺崋山。48 歳で自ら命を絶っています。

目次

渡辺崋山とは何をした人か

崋山の仕事は、三つに分かれます。

第一に、画家として。 写実的な肖像画で知られ、代表作の『鷹見泉石像』は国宝に指定されています。

第二に、家老として。 三河田原藩の家老を務め、藩の財政再建と飢饉対策にあたりました。

第三に、洋学の受容者として。 蘭学者たちと交流し、海外事情を学んで、幕府の対外政策を批判しました。

この第三の顔が、彼を死に追い込みます。

寛政 5 年(1793 年)、江戸の田原藩邸に生まれました。

貧しい家老の子

崋山の家は、家老の家柄でありながら極貧でした。田原藩自体が小藩で財政が苦しく、その家臣の暮らしも楽ではありません。

崋山は幼い頃から絵を描いて家計を助けたと伝えられます。絵は趣味ではなく、生活の手段として始まったのです。

やがて画法を本格的に学び、西洋画の陰影表現も取り入れていきます。対象の顔を、そこにいるかのように描く――東洋の肖像画の型に西洋の陰影法を接ぎ木した描き方です。

西洋風の表現自体は秋田蘭画や司馬江漢といった先行例がありますが、崋山の肖像画はその統合の一つの到達点とされます。『鷹見泉石像』がその代表です。

家老としての仕事

天保年間、崋山は田原藩の家老となります。

この時期、日本は天保の飢饉に見舞われました。各地で餓死者が出るなかで、崋山は備蓄と救済の仕組みを整え、田原藩から餓死者を出さなかったと伝えられます。幕府から表彰も受けています。

絵師としての名声とは別に、実務の人でもあったわけです。

蛮社の獄

崋山は、蘭学者や海外事情に通じた人々と交流していました。彼らが集まる会は、幕府の対外政策を議論する場でもありました。

天保 8 年(1837 年)、モリソン号事件が起こります。日本人漂流民を送り届けようとしたアメリカ船を、幕府が砲撃して追い返した一件です。

崋山はこれを批判する文書『慎機論』を書きました。世界の情勢を知らずに強硬策を取れば、日本は危ういという趣旨です。ただしこれは公表を意図したものではなく、手元に置かれていました。

天保 10 年(1839 年)、蛮社の獄が起こります。蘭学に通じた者たちが、幕政を批判したとして摘発されました。崋山も捕らえられます。

このとき問題とされたのが、公表していなかったはずの『慎機論』でした。書いただけで罪に問われたのです。

同じく摘発された高野長英は投獄され、崋山は在所での蟄居を命じられました。

「殺された」のではない

崋山について「なぜ殺されたのか」と検索されることがあります。

正確には、彼は処刑されていません。自ら命を絶ちました。

蟄居を命じられた崋山は、故郷の田原へ移ります。生活は困窮しました。

これを見かねた門人たちが会を作り、崋山の絵を売って生活を助けます。ところがこれが、蟄居の身でありながら作品が世に出ているとして問題視されそうだと伝わりました。それが藩に累を及ぼすことを恐れた崋山は、天保 12 年(1841 年)、田原で自刃します。満 48 歳でした。

遺書には、「不忠不孝」と自らを責める言葉が記されていたと伝えられます。藩に迷惑をかけたこと、親に先立つことへの言葉です。

罪状は書物一つ、死に方は自裁。 蛮社の獄がどういう事件だったのかは、この結末に集約されています。

崋山の印

崋山の作品には、複数の落款と印が用いられています。作品の年代や真贋を判断する手がかりとされ、研究の対象になっています。

彼の作品は田原市の博物館などに所蔵され、国宝の『鷹見泉石像』は東京国立博物館が所蔵しています。

渡辺崋山の年表

出来事
1793 年江戸の田原藩邸に生まれる
1800 年代家計を助けるため絵を描き始める
1830 年代田原藩の家老となる。天保の飢饉に対処
1837 年『鷹見泉石像』を描く。モリソン号事件が起こる
1839 年蛮社の獄で捕らえられ、在所での蟄居を命じられる
1841 年田原で自刃。満 48 歳

蘭学とその弾圧については蘭学と適塾、同時代の画家は葛飾北斎で扱っています。

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