幕末の偉人

杉田玄白とは?解体新書と蘭学を切り開いた生涯をわかりやすく解説

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杉田玄白とは?解体新書と蘭学を切り開いた生涯をわかりやすく解説
杉田玄白 肖像 / 出典: Wikimedia Commons Public domain

まともな辞書が無い状態で、外国語の医学書を訳した人たちがいます。杉田玄白と、その仲間です。できあがったのが『解体新書』でした。

目次

杉田玄白とは何をした人か

玄白は、日本の蘭学の扉を開いた人物です。

オランダ語の解剖書『ターヘル・アナトミア』を仲間とともに翻訳し、安永 3 年(1774 年)に『解体新書』として刊行しました。これは日本で最初の、本格的な西洋医学書の翻訳です。

この一冊があったからこそ、後に緒方洪庵の適塾のような蘭学の拠点が生まれ、福沢諭吉のような人材が育っていきました。幕末の洋学は、ここから始まっています。

享保 18 年(1733 年)、江戸の生まれ。若狭小浜藩の藩医の家に育ち、自身も藩医となりました。

腑分けの日

すべては、明和 8 年(1771 年)の一日から始まります。

玄白は江戸・小塚原の刑場で行われる腑分け――遺体の解剖――に立ち会いました。同席したのが前野良沢と中川淳庵です。

このとき玄白と良沢は、それぞれ手に入れていたオランダ語の解剖書を持参していました。そして図と実物を見比べます。

図が、正確でした。

当時の日本の医学は、中国由来の身体観に基づいていました。内臓の配置も、その説明とは違っていたのです。目の前の体は、オランダの本のとおりだった。

玄白はのちに、このときの衝撃を繰り返し書き残しています。翌日から、彼らは翻訳に取りかかりました。

辞書のない翻訳

作業は困難を極めました。

使えるオランダ語の辞書が、ほとんどありません。前野良沢は簡便な語彙集を持っていましたが、本格的な蘭和辞書は存在しない時代です。文法書もありません。多くの語は、文脈と図から意味を推測して埋めていくしかありませんでした。

有名な逸話に「フルヘッヘンド」という語をめぐるものがあります。玄白の回想によれば、鼻の説明に出てくるこの語の意味が分からず、「うず高く盛り上がっている」という解にたどりつくまで長い時間を要したといいます。

ただしこの逸話には注意が必要です。フルヘッヘンドは鼻そのものを指す名詞ではなく、盛り上がった状態を表す語と解されたものであり、原書の該当箇所にこの語が見当たらないことから、玄白の記憶違いではないかとも指摘されています。翻訳の困難を伝える回想として読むべきところです。

玄白自身のオランダ語の力は、決して高くありませんでした。語学の中心を担ったのは前野良沢です。玄白はむしろ、企画を立て、仲間を集め、作業を続けさせ、そして出版まで持っていく役でした。

訳す力と、世に出す力は別のものです。 この二つが揃ったからこそ『解体新書』は世に出ました。

前野良沢の名がない理由

『解体新書』には、前野良沢の名が訳者として載っていません

理由として伝えられているのは、良沢自身がこれを望まなかったということです。まだ不完全だという思いが強く、自分の名を出すことを拒んだとされます。

学問的な完璧さを求める良沢と、不完全でも世に出して役立てようとする玄白。この二人の姿勢の違いが、日本の蘭学の出発点にはあります。

どちらが正しいという話ではありません。良沢が正確さを守り、玄白が普及を担った。役割が分かれていたと見るほうが実情に近いでしょう。

『蘭学事始』

玄白は晩年、**『蘭学事始』**を書き残しました。あの翻訳がどのように行われたのかを、当事者として振り返った回想録です。

辞書もなく手探りだったこと、良沢の力に負っていたこと、途方に暮れた日々のこと。成功譚ではなく、困難の記録として書かれているのがこの本の特徴です。

この原稿は一時行方が分からなくなり、幕末になって発見されて世に出ました。福沢諭吉がその刊行に関わっています。 蘭学の出発点の記録が、蘭学から英学へ移った世代の手で世に出されたことになります。

最期

文化 14 年(1817 年)、玄白は江戸で世を去りました。満 83 歳、数えで 85 歳です。当時としては大変な長寿でした。

腑分けの日から、46 年が経っていました。

杉田玄白の年表

出来事
1733 年江戸に若狭小浜藩医の子として生まれる
1771 年小塚原の刑場で腑分けに立ち会い、西洋解剖書の正確さに驚く
1771 年〜前野良沢・中川淳庵らと翻訳に着手
1774 年解体新書』刊行
1815 年『蘭学事始』を書き上げる
1817 年江戸で死去。満 83 歳

蘭学がその後どう広がったかは蘭学と適塾、西洋医学の実用化は種痘と西洋医学で扱っています。

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