幕末の偉人

佐久間象山とは?「東洋道徳、西洋芸術」を説いた思想家を解説

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佐久間象山とは?「東洋道徳、西洋芸術」を説いた思想家を解説
佐久間象山 肖像 / 出典: Wikimedia Commons Public domain

日本の精神を保ちながら、西洋の技術を取り入れよ。 そう説いた思想家がいます。佐久間象山。多くの俊英を育て、そして暗殺されました。

目次

佐久間象山とは何をした人か

象山は、幕末を代表する思想家・兵学者です。

彼の主張を一言でまとめれば、「東洋道徳、西洋芸術」――東洋の道徳(精神)を土台としながら、西洋の芸術(科学技術)を取り入れる、という考えです。「芸術」とは今日の意味ではなく、科学技術や実学を指します。

攘夷でも、無条件の開国でもない。日本の精神を保ったまま、西洋の技術で国を強くする。 これが象山の立場でした。この考えは、多くの弟子を通じて幕末に広がっていきます。

文化 8 年(1811 年)、信濃松代藩の下級藩士の家に生まれます。

弟子たち

象山の影響力は、その弟子たちを通じて発揮されました。

彼の塾からは、驚くほど多くの重要人物が出ています。勝海舟吉田松陰橋本左内、坂本龍馬(一時期)、そのほか幕末を動かす人材が、象山のもとで西洋の兵学や科学を学びました。

とりわけ吉田松陰は、象山の最も知られた弟子です。松陰が黒船に乗り込んで密航を企てた背景には、象山の教えがありました。「自分の目で西洋を見よ」という象山の思想を、松陰が実行に移したのです。

その密航が失敗すると、象山も連座して処罰されました。弟子の行動の責任を、師も負ったことになります。

傲岸な天才

象山は、きわめて自負心の強い人物でした。

自分の才能を確信し、それを隠しませんでした。他人を見下すような態度をとることも多く、敵も多かったと伝えられます。「天下の英才は自分と、あと数人だ」という趣旨のことを公言したという逸話も残ります。

この傲慢さは、彼の思想の先進性と表裏でした。時代の誰よりも早く西洋の重要性を見抜いていたという自覚が、彼を尊大にしたとも言えます。実際、彼の見通しの多くは正しかったのです。

この性格が、彼の身を危うくもしたかもしれません。ただし暗殺の理由として記録に残るのは、開国と西洋学、公武合体を説いて政治に関わったことであり、性格そのものが原因だったと言い切れる史料はありません。

開国論と暗殺

黒船来航の後、象山は開国を主張しました。攘夷は不可能であり、西洋に学んで国を強くするほかない、という立場です。

しかし当時は、攘夷を叫ぶ声が最も激しかった時期です。開国を説くことは、命を懸けることを意味しました

元治元年(1864 年)、象山は京都で暗殺されます。満 53 歳(数えで 54)でした。襲ったのは攘夷を信じる者たちです。

「東洋道徳、西洋芸術」を説き、西洋に開くべきだと主張した男が、西洋を憎む者に斬られた。 のちに横井小楠も、開国論ゆえに攘夷派に暗殺されています。開国を説く思想家が、攘夷派の刃に倒れた時代でした。

佐久間象山の評価

象山は、弟子たちの巨大さゆえに、かえって本人が霞むという珍しい位置にあります。

勝海舟も吉田松陰も、それぞれが歴史に名を刻む人物です。その師である象山は、「あの人たちを育てた人」として語られることが多いのです。

しかし、彼自身の思想の射程は大きなものでした。精神と技術を分けて考え、両者を接合しようとする――この発想は、その後の日本の近代化の一つの型となりました。西洋の技術を取り入れつつ、日本らしさを保とうとする姿勢は、明治以降も繰り返し現れる主題です。

その原型を、幕末の早い時期に打ち出したのが象山でした。

佐久間象山の年表

出来事
1811 年信濃松代藩の下級藩士の家に生まれる
1840 年代西洋の兵学・科学を修め、江戸で塾を開く
1850 年代勝海舟吉田松陰らを育てる
1854 年松陰の密航に連座して処罰される
1864 年京都で開国論ゆえに暗殺される。満 53 歳

弟子たちは勝海舟吉田松陰、同じく開国論で暗殺された人物は横井小楠で扱っています。

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