新島八重とは?会津で銃を取り同志社を支えた生涯と死因を解説

会津の落城を銃を持って戦い、その後 60 年以上を生きた女性がいます。新島八重です。
目次
新島八重とは何をした人か
八重の生涯は、三つの場面に分かれます。
第一に、会津の籠城戦。 会津戦争で銃を手に取り、鶴ヶ城に籠って戦いました。
第二に、同志社。 京都でキリスト教徒の新島襄と結婚し、その運営と女子教育を支えます。
第三に、看護。 日本赤十字社の篤志看護婦として、日清・日露の戦争で傷病兵の看護にあたりました。
幕末に旧幕府側で戦った女性が、明治にキリスト教主義の学校を支え、日本の戦争で看護にあたる。 これだけの振れ幅を一人で生きた例は多くありません。
新島八重の肖像

新島八重の生い立ちと砲術師範の家
弘化 2 年(1845 年)、会津藩士・山本権八の娘として生まれました。
山本家は砲術を家業とする家です。八重はこの家で育ち、銃の扱いを身につけました。武家の女性が薙刀を学ぶのが通例だった時代に、彼女が触れたのは火器でした。
兄の山本覚馬は、藩の洋学・砲術の中心にいた人物です。八重の知識はこの兄から来ています。
新島八重と鶴ヶ城の籠城
慶応 4 年(1868 年)、新政府軍が会津に迫ります。
八重は男装し、髪を切り、銃を持って城に入りました。当時としては新式の連発銃を扱ったと伝えられます。
夜襲に加わったという話、砲の照準を助けたという話が残ります。同時代の一次記録は多くなく、細部には後年の顕彰で整えられた部分がありますが、彼女が城内で戦闘に関わったこと自体は複数の記述に見えます。
同じ会津で、中野竹子は薙刀を取って城外で戦い、戦死しました。八重は銃を取り、城の中にいて、生き延びています。 武器も、居た場所も、負った役目も違いました。何が二人を分けたのかを一つに絞ることはできません。
新島八重と新島襄の結婚
会津藩が降伏し、藩が解体されたのち、八重は京都へ移ります。兄・覚馬が京都で新政府に登用されていたためです。
そこで出会ったのが、アメリカ帰りのキリスト教徒新島襄でした。二人は明治 9 年(1876 年)に結婚します。同志社英学校はその前年に、襄・山本覚馬らの計画によって開校しています。
旧幕府側で戦った会津の女性が、キリスト教の学校を作る男と結ばれた。 当時としては相当に異例の組み合わせでした。
結婚後の八重は学校の運営を支え、女子教育にも関わりました。夫を名で呼び、人前でも自分の意見を述べる姿は、当時の日本の常識からは外れていました。
周囲からの批判もありましたが、襄は彼女を高く評価しています。 襄が彼女について記した「ハンサム」という語は、容姿ではなく振る舞いや生き方を指したものでした。
新島八重の看護婦としての活動
明治 23 年(1890 年)に襄が没したのち、八重は日本赤十字社の篤志看護婦となります。
日清戦争では広島の、日露戦争では大阪の陸軍予備病院に勤務しました。いずれも前線ではなく国内の後方病院です。戦場を知る者として、今度は傷ついた者を助ける側に立ったことになります。
その功により勲章を受けています。戦った側の女性が、国から叙勲されたのです。
新島八重の死因
昭和 7 年(1932 年)、八重は京都で世を去りました。満 86 歳です。
死因は急性胆嚢炎とされます。幕末に銃を取った世代のなかでも、際立って長い生涯でした。
墓は京都の同志社墓地にあり、夫・襄とともに眠っています。
会津で戦った女性が、京都のキリスト教学校の墓地に葬られている。 彼女の人生の振れ幅が、そのまま墓の場所に残っています。
新島八重の年表
| 年 | 出来事 |
|---|---|
| 1845 年 | 会津藩の砲術師範・山本権八の娘として生まれる |
| 1868 年 | 会津戦争。男装して鶴ヶ城に籠城 |
| 1870 年代 | 京都へ移る |
| 1876 年 | 新島襄と結婚。同志社を支える |
| 1890 年 | 襄が死去 |
| 1894 年・1904 年 | 日清・日露の戦争で、広島・大阪の陸軍予備病院に篤志看護婦として勤務 |
| 1932 年 | 京都で死去。満 86 歳 |
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