幕末の偉人

長曽祢虎徹とは?近藤勇の愛刀で知られる江戸の刀工を解説

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長曽祢虎徹とは?近藤勇の愛刀で知られる江戸の刀工を解説

刀の名前としては、日本でもっとも有名なものの一つでしょう。虎徹。打ったのは、長曽祢虎徹という江戸の刀工です。

目次

長曽祢虎徹とは何をした人か

虎徹は、江戸時代前期の刀工です。

刀剣の世界では、慶長(17 世紀初頭)より後に作られた刀を新刀と呼びます。虎徹は、その新刀のなかで最高峰の一人と評価されてきました。

作風の特徴は、よく斬れることと、堅牢さにあります。実際に試し斬りの結果を刀身に刻んだ作が残っており、性能を売りにしていたことがうかがえます。

甲冑師からの転身

虎徹について特筆すべきは、もともと刀工ではなかったことです。

彼は越前で甲冑師――鎧兜を作る職人でした。鉄を鍛えて防具にする仕事です。長曽祢の鍛冶は近江から越前へ移った一族とされ、虎徹自身の出生地は確定していません。

やがて江戸へ出て、刀鍛冶に転じます。転身の時期は50 歳前後だったとされ、刀工としては異例の遅さです。

鉄を扱う技術は同じでも、守る道具から斬る道具へ。 泰平の世が続いて甲冑の需要が減っていったことが、背景にあったとみられます。

そして遅く始めたにもかかわらず、彼の刀は最高級の評価を得ました。

なぜ贋作が多いのか

虎徹を語るとき避けて通れないのが、贋作の多さです。

刀の世界には「虎徹を見たら贋物と思え」という言い方があるほどで、銘があるというだけでは真作と判断できません

理由は単純です。評価が高く、高値がついたからです。作刀した期間は 25 年ほどで相当数を残していますが、それでも需要には追いつきませんでした。

真贋の鑑定は今日でも専門家の仕事です。

近藤勇の「虎徹」

一般に虎徹の名を広めたのは、新選組局長・近藤勇です。

池田屋事件ののち、近藤は故郷への手紙で、隊士の刀が損なわれるなか自分の刀は虎徹ゆえか無事だったと書き送っています。この一節が「近藤の虎徹」を有名にしました。

しかしこの刀が本物の虎徹だったかについては、かねて疑問が呈されています。

理由は前述のとおりで、当時すでに虎徹は極めて高価であり、贋作が横行していました。江戸・市谷の試衛館を継いだ近藤が真作を入手できたかは疑わしい、という見方が根強くあります。

近藤自身が真贋をどこまで承知していたのかも分かりません。

ただ、この一件は虎徹という刀工の位置をよく示しています。「良い刀を持っている」と言いたいとき、名前として選ばれるのが虎徹だったわけです。

今日の虎徹

虎徹の作は、現在も重要文化財や重要美術品に指定されたものが伝わっており、博物館や刀剣の展示で見ることができます。

近年は刀剣を題材にしたゲームや舞台を通じて、刀の名前として若い世代にも知られるようになりました。ただしそこで描かれる人物像は創作であり、刀工としての長曽祢虎徹の記録とは別のものです。

刀工本人については、生年も出生地も分かっていません。近江の出とする説があり、越前で甲冑師として活動したことが知られています。延宝 6 年(1678 年)ごろに没したとされます。

長曽祢虎徹の年表

出来事
生年不詳出生地も未確定。近江の出とする説がある
前半生越前で甲冑師として鎧兜を作る
1650 年代頃江戸へ出て刀工に転じる。50 歳前後とされる
1660〜70 年代江戸新刀の名工として高い評価を得る
1678 年頃死去

刀を使った側については近藤勇、幕末の剣術については幕末の剣術道場で扱っています。

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