吉村虎太郎とは?天誅組を率いた庄屋の生涯と生家・邸跡

明治維新の 5 年前に、新政府軍より先に「倒幕の兵」を挙げた一団があります。天誅組。その三人の総裁の一人が、土佐の庄屋・吉村虎太郎でした。
目次
吉村虎太郎とは何をした人か
吉村は、天誅組の変を起こした志士の一人です。天誅組は公家の中山忠光を主将に戴き、その下に藤本鉄石・松本奎堂・吉村虎太郎の三名の総裁が置かれました。吉村はその一人です。
文久 3 年(1863 年)、大和国五条の代官所を襲撃して挙兵し、幕府の直轄領を朝廷のものと宣言しました。尊王攘夷派による最初の武装蜂起とされます。
しかし挙兵の直後に京都の政局が引っくり返り、彼らは後ろ盾を失います。一夜にして「官軍」から「賊」に変わったのです。吉村は追われ、満 26 歳で戦死しました。
吉村虎太郎が庄屋から志士になるまで
天保 8 年(1837 年)、土佐国高岡郡の芳生野に生まれます。家は庄屋でした。
庄屋は武士ではありません。村を治め、年貢を取りまとめる、村方の役職です。吉村自身も若くしてその務めに就いています。刀を差す身分ではないところから出発した人物でした。
やがて彼は武市半平太の土佐勤王党に加わります。同じ土佐から出た坂本龍馬や中岡慎太郎と同じ流れのなかにいました。
文久 2 年(1862 年)、吉村は脱藩します。藩を捨てて志に就くという、当時の武士にとって最も重い決断です。しかし京へ上ったところで、薩摩藩士の同士討ちに巻き込まれる形で計画が潰え、土佐へ送り返されて投獄されました。
一度は挫折していることは、彼を理解するうえで重要です。
吉村虎太郎と天誅組の変
文久 3 年(1863 年)、吉村は再び脱藩します。
このとき朝廷では攘夷派が力を握り、天皇が大和へ行幸して攘夷を親征するという計画が進んでいました。吉村らは、その行幸に呼応して兵を挙げようとします。
公家の中山忠光を主将に迎え、吉村・藤本鉄石・松本奎堂の三名が総裁となって天誅組を結成。8 月 17 日、大和五条の代官所を襲って代官を討ち、この地を朝廷の直轄とすると宣言しました。
その翌日、京都で政変が起きます。
八月十八日の政変です。薩摩と会津が結んで長州と攘夷派の公家を朝廷から追放し、行幸の計画は白紙になりました。天誅組は、呼応すべき相手を失ったのです。
吉村虎太郎の最期と一夜で賊となった政変
後ろ盾を失った天誅組は、たちまち「暴徒」として討伐の対象になります。
吉村らは十津川の郷士たちを集めて抵抗を試みますが、周辺の諸藩の兵に包囲されました。山中を転戦し、隊は次第に壊れていきます。
そして 9 月、吉村は鷲家口で新政府ならぬ幕府方の兵に討たれ、戦死しました。満 26 歳、数えで 27 歳です。
彼らが掲げたもののうち、倒幕と王政復古の側面は、5 年後に実現します。 一方で天誅組が唱えた即時の攘夷は、明治政府に引き継がれてはいません。維新の先駆と評価される一方で、掲げた中身がそのまま通ったわけではないというのが実際のところです。
吉村虎太郎邸
吉村について最も多く検索されているのは、実は生家です。
高知県高岡郡津野町に、吉村虎太郎邸が復元されて公開されています。彼が庄屋として暮らした家の姿を伝えるもので、資料の展示もあります。
見どころは、そこが武家屋敷ではないという点です。庄屋の家であり、村を治める者の住まいです。その家から出た男が、幕府直轄地を襲うところまで行った。 建物そのものが、彼の出発点を語っています。
津野町は山あいの静かな土地で、当時の交通事情を考えれば京都も大和もはるかに遠い場所でした。
吉村虎太郎の年表
| 年 | 出来事 |
|---|---|
| 1837 年 | 土佐国高岡郡芳生野に庄屋の子として生まれる |
| 1850 年代 | 庄屋の役を務める |
| 1861 年頃 | 土佐勤王党に加わる |
| 1862 年 | 脱藩。挫折して土佐へ送還され投獄される |
| 1863 年 | 再び脱藩。天誅組を結成し、大和五条で挙兵 |
| 1863 年 8 月 18 日 | 政変により後ろ盾を失い、討伐の対象となる |
| 1863 年 9 月 | 鷲家口で戦死。満 26 歳 |
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