山本覚馬とは?失明しながら京都を作り変えた会津人を解説

目が見えなくなり、敵に捕らえられた男が、獄中で新しい国の設計図を書きました。 山本覚馬。会津藩士です。
目次
山本覚馬とは何をした人か
覚馬の生涯は、会津戦争を境に前後で反転します。
前半は、会津藩の砲術師範として。 洋式の砲術を学び、藩の軍事の近代化を担いました。
後半は、京都の近代化の担い手として。 京都府の顧問となり、産業・教育の仕組みづくりを主導します。
そして、新島八重の兄でもあります。妹が新島襄と結ばれ、同志社が生まれる背景には、この兄の存在がありました。
文政 11 年(1828 年)、会津藩士・山本権八の子として生まれます。
洋学と砲術
若い覚馬は江戸へ出て、佐久間象山らに洋学と砲術を学びました。当時の最先端です。
会津へ戻ってからは藩校で教え、洋学所の設立にも関わります。会津藩の軍事を、旧来の弓馬刀槍から西洋式へ切り替えようとした中心人物でした。
妹の八重が銃を扱えたのは、この兄の知識が家にあったからです。
失明
やがて覚馬は目を病みます。
京都で会津藩の要職に就いていた時期には視力が著しく落ち、最終的にほとんど見えなくなりました。砲術を専門とする者にとって、これは職業そのものを失うことを意味します。
しかし彼は退きませんでした。見えないまま、藩の政務に関わり続けます。
幽閉、そして『管見』
慶応 4 年(1868 年)、鳥羽伏見の戦いで旧幕府軍が敗れます。京都にいた覚馬は、薩摩藩に捕らえられ幽閉されました。
会津は朝敵とされ、故郷は攻められようとしていました。目が見えず、敵地に囚われ、藩は滅びようとしている。 ここが彼の人生の底です。
その状況で、覚馬は口述によって一つの文書を作らせます。『管見』です。
内容は、これからの日本がどうあるべきかという構想でした。議会を開くこと、教育を広めること、産業を興すこと、法を整えること。囚われの身の敗者が、勝者に向けて国家の設計を書いたのです。
『管見』は新政府側の人々に読まれ、高く評価されました。のちに覚馬が京都府に登用される道は、この評価によって開かれています。釈放そのものが『管見』の直接の結果だったと言い切れる史料はありません。
京都を作り変える
明治になり、覚馬は京都府の顧問となります。
当時の京都は危機にありました。天皇が東京へ移り、都でなくなったのです。人口は流出し、経済は沈みました。
覚馬が関わったのは、産業と教育の立て直しです。西洋の科学技術を扱う施設を設け、女性が技術を学ぶ場を作り、勧業の政策を進めました。京都府議会が発足すると、その初代議長にも就いています。
会津で敗れた男が、京都の再建を担った。 これが彼の後半生です。
同志社と新島襄
明治 8 年(1875 年)、アメリカ帰りの新島襄が京都で学校を開こうとします。
キリスト教主義の学校です。当時の京都は仏教勢力の強い土地であり、反発は避けられません。
明治 8 年(1875 年)の開校時、校舎は借家でした。覚馬が手当てした旧薩摩藩邸跡の土地へ学校が移るのは、翌明治 9 年(1876 年)です。今日の同志社の場所は、この移転によって定まりました。
そして同じ年、妹の八重が新島襄と結婚します。兄が土地を出し、妹が伴侶となる。 同志社の成り立ちには、山本家の兄妹が深く関わっています。
山本覚馬の妻と子孫
覚馬の家族関係は、幕末の混乱をそのまま映しています。
会津の妻・うらとは、戦争によって生き別れになりました。覚馬は京都に囚われ、家族は会津にいたためです。娘のみねは、このうらとの間に会津で生まれています。 のちに京都で再婚した時栄との間にも、娘が生まれました。
会津の家族との関係は、戦後に再会したのちも複雑なものでした。藩の崩壊が、家族の形をそのまま壊したわけです。
娘のみねは結婚して子をもうけ、その子が山本家を継いでいます。
最期
明治 25 年(1892 年)、覚馬は京都で死去します。満 64 歳でした。
墓は京都の同志社墓地にあり、妹の八重、義弟の襄とともに眠っています。会津の砲術師範が、キリスト教学校の墓地に葬られているわけです。
山本覚馬の年表
| 年 | 出来事 |
|---|---|
| 1828 年 | 会津藩士・山本権八の子として生まれる |
| 1850 年代 | 江戸で洋学と砲術を学ぶ |
| 1860 年代 | 京都で会津藩の要職に就く。この頃までに視力を失う |
| 1868 年 | 鳥羽伏見の敗戦後、薩摩藩に捕らえられ幽閉。『管見』を口述 |
| 1870 年代 | 京都府顧問として産業・教育の振興にあたる |
| 1875 年 | 同志社英学校が借家で開校 |
| 1876 年 | 覚馬が手当てした旧薩摩藩邸跡へ学校が移転。八重が新島襄と結婚 |
| 1892 年 | 京都で死去。満 64 歳 |
あわせて読みたい

橋本左内とは?安政の大獄に散った福井の俊英の生涯と名言
数え15歳で『啓発録』を著し、福井藩の藩政改革と将軍継嗣問題に奔走した橋本左内。満25歳で安政の大獄に処刑された俊英の生涯と、その言葉を史実に沿って解説します。

伊東甲子太郎とは?新選組を割って油小路に散った理論家を解説
学識と剣を備えて新選組の参謀となりながら、勤王の志ゆえに袂を分かった伊東甲子太郎。御陵衛士を組織し、油小路で謀殺されるまでの生涯を史実に沿って解説します。

河井継之助とは?長岡藩を率いてガトリング砲で戦った男を解説
小藩・長岡を率い、武装中立を掲げて新政府と交渉し、決裂すると最新兵器で戦った家老・河井継之助。北越戦争での奮戦と、傷を負って山を越え41歳で果てた最期を史実に沿って解説します。
