幕末の偉人

平賀源内とは?エレキテルと土用の丑の日、その最期を解説

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平賀源内とは?エレキテルと土用の丑の日、その最期を解説
平賀源内 肖像(『国史大図鑑』1932 年より) / 出典: Wikimedia Commons Public domain

一つの肩書きに収まらない人物というのは、たいてい誇張です。平賀源内は例外でした。

目次

平賀源内とは何をした人か

源内が手がけたものを並べると、こうなります。

本草学者。 薬草や鉱物を分類・研究する、当時の博物学です。全国から物産を集めた展示会を開きました。

発明家・技術者。 静電気を起こすエレキテルの復元、燃えない布火浣布の製作、鉱山の開発。

戯作者。 風刺のきいた読み物を書き、浄瑠璃の脚本も残しました。

画家。 西洋画の技法を学び、油絵も描いています。

讃岐国(現在の香川県)の生まれ。生年は享保 13 年(1728 年)とするのが通説ですが異説があり、生まれた月日も分かっていません。長崎で蘭学に触れたことが、その後の道を決めました。

エレキテル

源内の名を最も有名にしたのがエレキテルです。

これは摩擦によって静電気を起こす装置で、オランダから伝わったものでした。源内はこれを壊れた状態で入手し、修理・復元したとされます。

用途は主に見世物と、医療への応用でした。当時のヨーロッパでも電気は医療に使えると考えられており、源内も同様に扱っています。

電力を継続的に供給する装置ではありませんが、摩擦によって実際に静電気を起こす、動く機械でした。電気という現象を日本で扱ってみせた最初期の例です。

土用の丑の日は本当か

土用の丑の日に鰻を食べる」という習慣を作ったのは源内だ、という話は広く知られています。

夏に売れない鰻屋に相談され、源内が「本日、土用の丑の日」と書いた札を出させたところ大繁盛した――という筋書きです。

これを裏づける同時代の史料はありません。 後年の書物に現れる話で、伝説として扱うのが妥当です。

ただし、この話が源内に結びつけられたこと自体には理由があります。彼が広告や宣伝の才で知られた人物だったからです。物産会を企画し、自作を売り込み、話題を作る。この逸話は、源内という人物像に対する後世の評価を映しています。

何が問題だったのか

多才さは、そのまま成功を意味しませんでした。

源内の企てた事業――鉱山開発も、火浣布も、羊毛の生産も――多くは商業的に成り立ちませんでした。時代が追いついていなかったとも、彼が一つのことを続けられなかったとも言えます。

生涯を通じて定職に落ち着かず、後ろ盾を得ては離れることを繰り返しました。その振れ幅の大きさが、彼の才能と不遇の両方を作っています。

最期

安永 8 年(1779 年)、源内は殺傷事件を起こして捕らえられます

事件の経緯には諸説あり、確定した説明はありません。酒の席での誤解だったとも、精神的に不安定だったとも伝えられます。

投獄された源内は、翌年(西暦 1780 年 1 月)に獄中で死去しました。享年は数えで 52と伝えられますが、生年月日が確定しないため満年齢は算出できません。

友人だった杉田玄白は、その死を悼んで墓碑銘を書きました。「非常の人であり、非常のことを好み、行いも非常であった。それがなぜ、死に方まで非常なのか」という趣旨の文です。

多才さを称える言葉ではなく、嘆きとして書かれているところに、この人物の生涯が要約されています。

平賀源内の墓

墓は東京都台東区橋場にあります。もとの菩提寺である総泉寺は板橋区へ移転しましたが、源内の墓は旧境内の地に残されました。生地の香川県さぬき市には旧邸と記念館があります。

平賀源内の年表

出来事
1728 年頃讃岐国(現在の香川県)に生まれる(生年に異説あり)
1750 年代長崎で蘭学に触れる
1760 年代江戸で物産会を開き、本草学者として名を知られる
1770 年代エレキテルを復元。戯作・浄瑠璃・西洋画も手がける
1779 年殺傷事件を起こして投獄される
1780 年獄中で死去。享年は数え 52 と伝わる

同時代の蘭学者は杉田玄白、蘭学の広がりは蘭学と適塾で扱っています。

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