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英傑伝 / EIKETSUDEN

高杉晋作

おもしろきこともなき世を、おもしろく。

開催予定開幕まであと6日

会期2026年8月1日 10:002026年8月28日 20:00

幕末、長州。上士の家に生まれ、約束された滑らかな一生を、自らの手でことごとく踏み外した男がいた。英傑伝『高杉晋作篇』は、その二十七年の生涯を浮世絵と物語で追体験する期間限定イベント。

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高杉晋作とは

高杉晋作(1839-1867)は、幕末の長州藩に生まれた志士である。天保十年、萩城下の菊屋横丁に、上士・高杉小忠太の長男として生まれた。禄にも家格にも不足はなく、藩校に学んで家を継ぐ道が最初から敷かれていたが、この若者は退屈を何より恐れた。安政四年、数え十九で松下村塾の門をくぐり、吉田松陰に学ぶ。久坂玄瑞とともに「村塾の双璧」と称された。

文久二年(1862年)、幕府の貿易調査船・千歳丸に長州藩から選ばれて乗り込み、上海へ渡る。そこで彼が見たのは、西洋列強に喰い荒らされ半ば植民地と化した清国の姿であった。翌文久三年、下関戦争で攘夷の限界を思い知った長州で、身分を問わぬ志願兵の軍——奇兵隊を結成する。もっとも、その総督の座にあったのは三ヶ月ほどで、教法寺事件の責を負って罷免された。創った軍から、彼は追われている。

元治元年の暮れ、藩論が幕府恭順へ押し戻されるなか、下関の功山寺でわずか八十余人と挙兵。藩を再び倒幕へと引き戻した。慶応二年の四境戦争では海軍を率い、幕府の大軍を退ける。だがその体はすでに肺を病んでいた。慶応三年(1867年)、下関にて没する。享年二十七。大政奉還はその半年後のことで、彼が維新の世を見ることはなかった。

読み物でさらに詳しく

生涯を追体験する

全8章。浮世絵と物語で、その生涯をたどる。

菊屋横丁
菊屋横丁萩城下の武家屋敷町。海鼠壁の塀が続く上士の家並み。
第1章1852

萩・高杉家

天保十年の秋。長州・萩の城下に、一人の男児が生まれた。父は高杉小忠太。長州藩のなかでも上士に列する、れっきとした家柄であった。城に近い菊屋横丁に屋敷をかまえ、暮らしに事欠くことはない。生まれた長男は、のちに晋作と呼ばれる。高杉晋作、その人である。

同じ長州の空の下に、もう一人、のちに時代を揺らす男がいた。松本村の杉家——禄わずかな下級武士の出で、一家総出で畑を耕して口を糊した、吉田松陰である。やがて師となり弟子となる二人は、生まれた家の格からして、すでに対照をなしていた。一方は土の匂いのなかで、一方は城下のゆとりのなかで育つ。

松下村塾(夕)
松下村塾(夕)夕映えの松下村塾。維新の原動力を育てた私塾。
第2章1857

松下村塾

安政四年。数えで十九となった晋作は、萩の松本村にある小さな私塾の門をくぐった。松下村塾——主は、吉田松陰。かつて諸国を巡り、黒船に乗り込もうとして捕らえられ、いまは罪人として実家に蟄居の身。その松陰が、わずかな自由のなかで開いていた、六畳ほどの学び舎であった。

上士の子が、罪人の開く村の私塾に通う。それは、世間の目から見ればいささか奇異な選択であった。藩には立派な藩校・明倫館がある。家柄からすれば、晋作の進むべき道はそちらのはずだった。だが、敷かれた道を退屈と感じていたこの若者を惹きつけたのは、塀の中の学問ではなく、塀の外を見ようとする松陰の眼差しであった。

昌平坂学問所
昌平坂学問所幕府直轄の最高学府。全国の俊英が机を並べた。
第3章1858

江戸遊学

安政五年。晋作は藩の許しを得て、江戸へ遊学に出た。村塾で世界を見る眼を開かれた若者にとって、長州の城下はもはや狭すぎた。天下の中心・江戸で、より広い学問と、より多くの人に触れたい——その渇きが、彼を東へと向かわせた。

江戸では、幕府直轄の学問所・昌平黌に学ぶ機会を得る。全国から集まった俊英たちと机を並べ、学問を競った。だが、書斎に閉じこもるばかりの晋作ではない。彼はまた、剣術の道場にも通い、汗を流した。萩で磨いた剣を、天下の剣客を相手に試したのである。

上海・黄浦江
上海・黄浦江洋船のマストが林立する港と租界の街並み。晋作が見た清国。
第4章1862

上海渡航

文久二年。晋作に、またとない機会が訪れた。幕府が、貿易の実情を調べるために、清国の上海へ船を送るという。その名は千歳丸。長州藩は、この船に乗せる人材として、晋作を選んだ。鎖国の世にあって、公に海を渡れる——それは、世界を見たいと渇いていた彼にとって、夢のような話であった。

長崎を出帆した千歳丸には、各藩から選ばれた俊英が乗り込んでいた。佐賀藩の中牟田倉之助、そして薩摩藩の五代友厚——のちに名を成す者たちが、藩の垣根を越えて同じ船に揺られていた。なかには、藩士の正規の乗船が許されず、水夫に身をやつして乗り込んだ者もいたと伝わる。皆、世界を見たいという同じ渇きを抱えていた。

御殿山、燃ゆ
御殿山、燃ゆ品川に建てられていた公使館を焼いた夜。
第5章1863

攘夷・御殿山

上海から帰った晋作を待っていたのは、攘夷の熱に沸き立つ日本であった。異国を打ち払え——その声は、いまや嵐のように全国を覆っていた。清国の惨状を、誰よりも生々しく目に焼きつけてきた晋作である。異国に国を喰い破られる屈辱への怒りは、人一倍激しかった。

世界の現実を知った者であればこそ、攘夷の急先鋒に立つ——一見、矛盾した姿であった。だが晋作のなかでは、矛盾していなかった。清のようにされてたまるか、という怒りが、彼を攘夷の渦の中心へと押し出していった。彼は江戸で、同じ志を抱く長州の同志たちと、攘夷決行の盟約を結ぶ。

白石邸
白石邸下関の豪商の屋敷。身分を問わぬ者たちが集った奇兵隊の拠点。
第6章1863

奇兵隊結成

文久三年。攘夷を実行に移した長州藩は、下関の海峡を通る異国の船を砲撃した。だが、その報復は苛烈であった。西洋諸国の連合艦隊が下関に押し寄せ、長州の砲台を、いとも容易く沈黙させてしまう。気合いと旧来の備えは、近代の軍事力の前に、まるで歯が立たなかった。

この敗北は、晋作が上海で抱いた予感が、現実のものとなった瞬間であった。攘夷の心がいかに熱くとも、それを実現する力がなければ、清の二の舞になるだけだ。彼は藩に向かって、声を大にして説いた。旧来の武士の軍では、もう異国には勝てぬ。軍そのものを、根本から作り替えねばならぬ、と。

雪の功山寺
雪の功山寺夜明け前の山門。八十余人で挙兵に踏み切った雪の朝。
第7章1864

功山寺挙兵

元治元年。長州藩は、かつてない苦境に立たされていた。京での戦に敗れ、朝廷の敵——朝敵の汚名を着せられ、幕府の大軍に攻められる征討の的となった。藩を率いてきた倒幕派の志士たちは、次々と追い詰められていく。栄華を誇った攘夷の長州は、いまや存亡の淵にあった。

藩内では、幕府に恭順すべしと唱える保守派——俗論党が、急速に勢いを盛り返していた。彼らは、幕府の怒りを鎮めるため、倒幕派の志士たちを次々と捕らえ、処刑していった。倒幕の灯は、いまにも吹き消されようとしていた。長く積み上げてきたものが、音を立てて崩れていく——多くの者が、もはやこれまでと、天を仰いだ。

関門海峡
関門海峡砲煙たなびく海。幕府の大軍を退けた四境戦争。
第8章1866

四境戦争、そして

慶応二年。功山寺の挙兵で倒幕へ舵を切った長州を、幕府はふたたび大軍をもって攻めた。第二次長州征討——長州の四方の境で戦われたことから、四境戦争とも呼ばれるこの戦である。幕府が総力を挙げて攻め寄せるのに対し、長州はわずか一藩。兵力の差は、誰の目にも明らかであった。

だが、長州は、もはやかつての長州ではなかった。下関の敗北を糧に軍制を改め、奇兵隊をはじめとする諸隊が、洋式の装備と調練で鍛えあげられていた。そして、この戦で海の守りを託されたのが、晋作であった。彼は海軍を率い、押し寄せる幕府軍に立ち向かう。上海で西洋の海軍力を目の当たりにした男が、いまや自ら艦隊を指揮する立場にあった。

遺した言葉

名言・歌を、英傑伝の道中で集める。

  • 翼あらば 千里の外も飛めぐり よろづの國を見んとぞおもふ
    安政六年、二十歳頃の書簡に添えた歌(『東行先生遺文』)。海外への志を詠む。
  • 西へ行く人をしたひて東行く 我が心をば神やしるらむ
    雅号「東行(とうぎょう)」の由来と伝わる歌。
  • 策は密なるをもって良しとす
    高杉の兵法の箴言と伝わる。出典は確定していない。
  • 後れても後れてもまた君たちに 誓ひし言を吾忘れめや
    慶応元年、桜山招魂社の鎮座祭で、忠死した同志の御魂に手向けた歌(『東行先生遺文』)。
  • 人は人 吾は吾なり 山の奥に 棲みてこそしれ 世の浮き沈み
    慶応二年、父・小忠太に宛てた歌。桜山で療養しながら詠んだと伝わる。
  • 三千世界の烏を殺し ぬしと朝寝がしてみたい
    高杉が詠んだと伝わる都々逸。木戸孝允作とする説もある。

技量で、その学びを追う

行動を重ねるごとに技量が伸び、物語の段が解禁される。

  • 剣術

    萩で木刀を振り、江戸で天下の剣客と立ち合う。序盤の物語を押し開く力。

  • 識見

    時勢を読む眼。松陰に学んだ飛耳長目、そして上海で世界を見た眼。

  • 弁舌

    人を糾合し、説き伏せる舌。久坂との論戦、身分を問わぬ募兵。

  • 洋式軍制

    洋式の調練と編制思想。一藩が幕府の大軍を退けられた理由は、ここにある。

  • 胆力

    焼き討ちの決行、創った軍を追われる挫折、八十余人の決起。窮地で動ける力。

  • 統率

    藩論を動かし、諸隊を率いる力。功山寺の決起、そして四境の指揮。

おもしろきこともなき世をおもしろく すみなすものは心なりけり
高杉の遺した最も名高い句。下の句は野村望東尼が付けたと伝わる。

いま、その生涯をたどる。

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