
砲術師範の家
弘化二年の冬、会津に一人の女児が生まれた。名を八重という。父は山本権八、会津藩の砲術師範をつとめる家の当主である。以下、年齢はすべて数え年で記す。生まれた年を一つと数え、年が明けるごとに一つ加える、当時の数え方である。
武家の娘の稽古といえば薙刀である。長い柄の先に反った刃をつけ、間合いを取って払う。守りの武具であり、家の中の道具であり、女がそれを持つことは当たり前とされていた。会津の娘たちも、当然のように薙刀を習った。
英傑伝 / EIKETSUDEN
負けたあとを、六十四年生きた。
幕末、会津。武家の女が薙刀を習う時代に、銃を選んだ娘がいた。城は落ち、藩は消え、夫とは生き別れる。英傑伝『新島八重篇』は、負けたところから始まる八十六年の生涯を、浮世絵と物語で追体験する期間限定イベント。
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新島八重(1845-1932)は、会津藩の砲術師範・山本権八の娘として生まれた。兄の山本覚馬は藩の洋学と砲術の中心にいた人で、八重の知識はそこから来ている。武家の女が薙刀を習う時代に、この家にあったのは銃だった。他の婦人が薙刀を持つなかで自分は銃に志した、と本人が語っている。
慶応四年、鳥羽伏見で弟の三郎が死に、遺髪と着衣だけが会津へ帰ってくる。八重は髪を切り、その形見の装束を着て、元込め七連発銃を担いで鶴ヶ城に入った。一か月の籠城のあいだに父は城の外で討たれ、城中の白布は残らず包帯になり、開城前夜、女たちは布の切れ端をかき集めて白旗を縫った。城が開いたのは 1868年11月6日である。
負けたあと、藩は消え、夫とは生き別れ、米沢で一年を食いつないだ。兄が京都で生きていると知って上洛し、女紅場に職を得て、アメリカ帰りの新島襄と結婚する。襄が没したあとは日本赤十字社の篤志看護婦となり、日清戦争では広島で五十三名の取締として病棟を預かった——かつて自分が撃った側の軍の病棟である。裏千家に入門して茶名「新島宗竹」を受け、女性向けの茶の教室で自活した。昭和三年、会津松平家の姫が皇族に嫁いで会津の汚名が晴れる。その二年後、六十二年ぶりに故郷を訪ね、涙が先に立つ、という歌を詠んだ。
全8章。浮世絵と物語で、その生涯をたどる。

弘化二年の冬、会津に一人の女児が生まれた。名を八重という。父は山本権八、会津藩の砲術師範をつとめる家の当主である。以下、年齢はすべて数え年で記す。生まれた年を一つと数え、年が明けるごとに一つ加える、当時の数え方である。
武家の娘の稽古といえば薙刀である。長い柄の先に反った刃をつけ、間合いを取って払う。守りの武具であり、家の中の道具であり、女がそれを持つことは当たり前とされていた。会津の娘たちも、当然のように薙刀を習った。

文久二年、会津藩主・松平容保が京都守護職を命じられた。荒れた京の治安を預かる役である。断れば藩の面目が立たず、受ければ火中に手を入れることになる。容保は受けた。藩の主だった者が、そろって京へ上っていった。
そのなかに山本覚馬がいた。藩の洋学と砲術を担う兄は、当然のように連れていかれた。会津の山本家に残されたのは、母と、弟と、十八になった八重と、そして兄の部屋の書物であった。

慶応三年十月、将軍徳川慶喜が政権を朝廷へ返した。二百六十年あまり続いた仕組みが、書面の上で終わった。十二月には王政復古の大号令が出され、徳川に代わる政府が立つ。会津へは、これらがひと月遅れ、二月遅れで届いた。
会津の家々に伝わったのは、政変の理屈ではなく、その帰結のほうであった。守るべき将軍家が政権を手放したのなら、その将軍家を守ってきた会津は、これから何のためにあるのか。答えを誰も持たないまま、季節だけが進んだ。

慶応四年八月二十三日の朝、新政府軍が若松の城下へ入った。町に火が回り、藩士の家族は城へ向かって走る。山本の家でも支度が始まった。母、嫂、姪。そして八重である。
八重は髪を切った。そして、三郎の形見の装束を身につけた。着物と袴。麻の草履。腰には大小を手挟み、肩には元込めの七連発銃を担いだ。弾は百。三の丸の埋門から城へ入った。

城を出た者は、その場で分けられた。武士は捕らわれ、謹慎の地へ送られる。女と子供は城下に残される。八重が夫と離れたのは、このときである。次に会う日を決める余裕は、どちらにもなかった。
川崎尚之助は東京へ送られ、旧会津藩士として謹慎の身となった。その後、彼が会津の八重のもとへ帰ることはない。生き別れである。死んだのではないから弔うこともできず、生きているというだけで、どこにいるかもわからない。

京都にも戦火の記憶はあった。だが会津とは違い、町はすでに立ち直りかけており、人が働いていた。八重はそこへ、母と姪を連れて着いた。兄・覚馬は目が見えぬまま、新しい府の顧問として働いている。兄が京都守護職に従って会津を出てから、九年が経っていた。
翌年、八重は職を得る。京都府が開いた女紅場である。女子に読み書きと手仕事を教える場で、八重が任じられたのは権舎長、そして機織教導試補という役であった。寮を預かり、機織を教える。

夫を送ったのが一月である。世事を手放して静かにしていよう、と八重は言った。その三か月後、彼女は日本赤十字社の正社員になっている。明治二十三年四月二十六日のことであった。
日本赤十字社は、その三年前に博愛社から名を改めたばかりの組織である。戦時に傷病兵を救護することを目的に掲げ、平時から人を集め、備えていた。八重が入ったのは、その平時のほうであった。

裏千家に入門した八重は、茶名を受けている。新島宗竹という。教授の資格を得たということであり、以後、彼女は京都で女性のための茶の教室を開いた。
これは趣味ではない。生計である。夫は亡くなって久しく、子はない。同志社の創立者の未亡人として遇される道もあったが、八重は自分の技で食う道を選んだ。教えて、月謝を受け取り、それで暮らす。
名言・歌を、英傑伝の道中で集める。
私は弟の敵を取らねばならぬ、私はすなわち、三郎だという気持で、その形見の装束を着て、一は主君のため、一は弟のため、命の限り戦う決心で、城に入りました『婦人世界』第四巻第十三号「男装して會津城に入りたる當時の苦心」(明治42年11月)。籠城から41年後の回想である。
永く神経を疲労し、医命により出来る丈世事を棄つる様にし、閑散ならんことを期す『女学雑誌』「新島襄先生未亡人を訪ふ」(明治23年)。襄の死の半年後の談話。ここから日本赤十字社と従軍の十五年が始まる。
東やまゆみはり月はてらせども むかしの城はいまくさの原自筆短冊。八重自身が「大正九年若松にて」と記す。喜寿の会津訪問の作とされ、初出は『会津会会報』十九号。
いくとせかみねにかゝれる村雲の はれて嬉しき光りをぞ見る自筆短冊「御慶事をきゝて」(八十四歳・昭和3年秋)。御慶事とは昭和三年九月二十八日、会津松平家の松平勢津子が秩父宮に嫁いだこと。六十年 峰にかかっていた村雲が晴れた。
老ぬれどまたもこえなむ白河の せきの戸ざしはよしかたくとも『同志社同窓会学友会期報』五十五号(昭和5年12月)。白河の関は会津への入口。数えで八十六になって、また越えようと詠んでいる。
美徳以為飾八重の揮毫。掛軸として福島県立葵高等学校が所蔵する。出典は『ペトロの手紙一』三章三〜四節とされる。
行動を重ねるごとに技量が伸び、物語の段が解禁される。
山本家は会津藩の津田流炮術師範家。武家の女が薙刀を習う時代に、この家の娘が習ったのは銃だった。
城中で握り飯を病室へ運んだ手が、二十六年後に陸軍予備病院の持ち場になる。何をすべきか分かっていて、人を束ねられる手のこと。
弾を込め、着物を繕い、白旗を縫い、晒を巻き、茶を点てる。六十四年のあいだ一度も途切れなかったもの。
女紅場の「機織教導試補」が史実の役名。のち同志社で礼法を教え、晩年は女たちに茶を教えて自活した。
物の理を究める、の意。兄の蘭書、銃の構造、英学、医学。開けて中を見る姿勢そのもの。
籠城にも、離縁にも、「女のくせに」という声にも、従軍にも要ったもの。最後は白河の関をもう一度越えるために使われる。
明日の夜は何国の誰かながむらむ なれし御城に残す月かげ
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