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英傑伝 / EIKETSUDEN

勝海舟

刀を抜かずに、百万の町を救った。

開催予定開幕まであと4日

会期2026年8月29日 08:002026年9月25日 20:00

幕末、江戸。御家人株を買った貧しい旗本の家に生まれ、生涯ひとりも斬らずに時代を渡り切った男がいた。英傑伝『勝海舟篇』は、その七十五年の生涯を浮世絵と物語で追体験する期間限定イベント。

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勝海舟とは

勝海舟(1823-1899)は、幕末から明治にかけての幕臣である。文政六年、江戸本所亀沢町に生まれた。旗本とはいえ、その身分は曾祖父が金で買ったものだったと伝わり、暮らしは江戸の武家のなかでも最下層に近かった。剣は島田虎之助に学んで免許を得たと伝わるが、生涯ひとりも斬っていない。刀の柄と鞘を紐で結わえ、抜けないようにしていたと本人が語っている。

蘭学を独学し、辞書『ドゥーフ・ハルマ』を一年かけて二部書き写して、一部を売って借料に充てた。ペリー来航の年に出した一通の海防意見書が老中・阿部正弘の目に留まり、無名の下級幕臣が歴史の表に出る。長崎海軍伝習所で五年を過ごし、万延元年には咸臨丸で太平洋を渡った。もっとも彼は艦長でも司令官でもなく、航海のあいだは船酔いで艦室から出られなかった。海軍を作った人であって、海の名手ではなかったのである。

神戸に海軍操練所を開き、脱藩浪人・坂本龍馬を弟子に取る。慶応四年、幕府が畳まれる側に回ったとき、勝は江戸を焼く支度を整えたうえで西郷隆盛との談判に臨んだ。山岡鉄舟の先行交渉、大奥の嘆願、諸外国の牽制——あらゆる札を並べた末の二日間で、百万の町は戦火を免れる。明治を三十年生き、節を曲げたと責められながら旧幕臣を養い、西郷の名誉を回復し、旧主・徳川慶喜の拝謁を実現させた十か月後、風呂上がりに倒れて没した。享年七十五。

読み物でさらに詳しく

生涯を追体験する

全8章。浮世絵と物語で、その生涯をたどる。

本所亀沢町
本所亀沢町江戸の東、堀と裏長屋の町。御家人株を買った旗本の小さな屋敷がある。
第1章1823

本所・勝家

文政六年の春。江戸の東、本所亀沢町の小さな屋敷に、一人の男児が生まれた。通称を麟太郎という。旗本・勝家の跡取りである。旗本といえば将軍直属の家臣であり、聞こえは悪くない。だがこの家の内実は、江戸じゅうの武家のなかでも最下層に近かった。

そもそも勝家は、生まれながらの武士の家ではない。麟太郎の曾祖父にあたる米山検校は、越後に生まれた盲人であった。江戸に出て金貸しで身を起こし、蓄えた金で御家人の株を買った——そう伝わる。つまりこの家の武士の身分は、代々受け継がれてきたものではなく、金で買われたものだった。

氷解塾
氷解塾行灯の下に写本が積まれた蘭学の一間。辞書を二部書き写した机。
第2章1845

蘭学修行

弘化二年、麟太郎がまず訪ねたのは、箕作阮甫であった。当代一流の蘭学者である。ここで学べれば、それに越したことはない。だが入門は断られた。理由は伝わっていない。

断られた者に、次の当てがあるわけではない。江戸に蘭学の師は数えるほどしかいない。それでも麟太郎は歩き回り、ようやく永井青崖という蘭学者のもとに入ることができた。もっとも、入門には束脩がいる。金のない者にとって、学問はまず銭の問題であった。

黒船来航
黒船来航下田の夜の海に停泊する黒船。踏海を企てた緊迫の一夜。
第3章1853

海防意見書

嘉永六年の夏、浦賀の沖に四隻の異国船が現れた。うち二隻は煙を吐いて、風に逆らって進んだ。帆に頼らぬ船である。乗っていたのはアメリカの使節ペリー。持参したのは開国を求める国書であった。

江戸は震え上がった。二百年余り、海の向こうから兵が来ることを本気で想定してこなかった町である。人々は家財をまとめて逃げ支度をし、商人は米を買い占め、武士は錆びた具足を引っ張り出した。だが、四隻の船を止める手立てを持つ者は、どこにもいなかった。

長崎海軍伝習所
長崎海軍伝習所出島を望む入江。オランダ人教官のもとで五年を過ごした海の学校。
第4章1855

長崎海軍伝習所

安政二年、幕府はついに海軍の建設に踏み切った。場所は長崎。二百年にわたって唯一の窓であり続けた港である。教官は、その窓の相手であったオランダに請うた。彼らは練習用の蒸気船まで一隻、贈ってよこした。観光丸である。

麟太郎はその伝習生の一人に選ばれた。海防意見書を書き、蘭書を訳してきた男である。順当な人選と言えた。彼は江戸を発ち、長崎へ下る。三十を過ぎての、遅い船出であった。

咸臨丸、太平洋
咸臨丸、太平洋荒天の外洋を行く三本マストの軍艦。船酔いの艦室と、休みなく続く波。
第5章1860

咸臨丸

安政七年の正月——万延と改まるのは、この年の三月である——一隻の船が品川を出た。咸臨丸という。幕府がオランダから買い入れた蒸気船である。目指すはアメリカ。日米修好通商条約の批准書を交換する使節団に随行する、その随伴艦であった。

乗艦の責任者は軍艦奉行の木村摂津守喜毅。麟太郎の職名は軍艦操練所教授方頭取であって、艦長ではない。船には、漂着していた米国艦の乗員たちも同乗していた。ブルック大尉以下、本職の海軍軍人である。彼らを本国へ送り届ける名目であった。

神戸海軍操練所
神戸海軍操練所身分を問わず集った者たちの船着き場。脱藩浪人も机を並べた。
第6章1862

神戸と龍馬

文久二年、麟太郎は軍艦奉行並に任じられた。役高千石。かつて役のない小普請組にいた男が、海軍の実務を差配する立場に就いたのである。四十を目前にしての、遅い出世であった。

だが役に就いたところで、金が湧くわけではない。船を買う金、人を育てる場所、そこへ人を送る仕組み——そのすべてを、幕府の役所と掛け合って取ってこなければならなかった。彼が費やした時間の大半は、海の上ではなく、畳の上の交渉であった。

田町・薩摩藩邸
田町・薩摩藩邸江戸を焼く支度をしたうえで向かった座敷。相対して座る二人ぶんの座布団。
第7章1866

江戸開城

慶応二年、海舟は蟄居を解かれ、軍艦奉行に復帰した。呼び戻された理由は単純である。幕府が長州との戦に負けたからであった。第二次の長州征討は各所で崩れ、幕府軍は退きつつあった。誰かが後始末をつけねばならない。

その役が、海舟に回ってきた。彼は安芸の宮島へ赴き、大願寺で長州側と向き合う。相手は広沢真臣、井上馨ら。つい先ごろまで撃ち合っていた相手と、同じ座敷で停戦の話をするのである。

氷川の座敷
氷川の座敷明治の赤坂氷川。庭に面した縁側と、客の絶えない座談の間。
第8章1869

氷川の三十年

江戸が明け渡され、徳川家は駿府へ移された。直轄領だけで四百万石、旗本の知行地まで合わせれば七百万石に及んだ家が、七十万石に減らされたのである。従っていた家臣たちは、そのほとんどが職を失った。旗本・御家人とその家族を合わせれば、数万の人間が路頭に迷うことになる。

勝安芳——明治となって彼はこの名を用いる——もまた、静岡へ下った。新政府からは幾度も出仕を促されたが、断り続けた。彼がまずやらねばならなかったのは、行き場を失った旧幕臣たちの暮らしを、どうにか立てることであった。

遺した言葉

名言・歌を、英傑伝の道中で集める。

  • おれは今までに天下で恐ろしいものを二人見た。それは横井小楠と西郷南洲だ
    晩年の談話『氷川清話』より。恐ろしいと言った二人のうち一人は、江戸開城で向かい合った相手であり、のちに勝が名誉回復に力を尽くした相手でもある。
  • 君は人を殺すことをたしなんではいけない
    護衛の岡田以蔵を諭した言葉。晩年の談話『氷川清話』より。以蔵は「それでもあの時私が居なかったら、先生の首は既に飛んでしまつて居ませう」と返し、勝は「これには俺も一言もなかったよ」と語っている。
  • 市街を焼き、進退を断ち切り、焦土となさむ
    『解難録』より。江戸開城の談判が決裂したときのための焦土作戦。戦わずに決着させた男は、江戸を焼く支度をしたうえで談判の座に着いた。
  • ただ幕臣が飢えるのも気の毒だから、それだけは頼むぜ
    西郷隆盛との江戸開城の談判にて。晩年の談話『氷川清話』より。百万の町の運命が決まる席で、この人が自分から頼んだのはこれだった。
  • 男児世に処する、ただ誠意正心をもって現在に応ずるだけのことさ
    晩年の談話『氷川清話』より。後世にどう言われるかではなく、目の前の一件にどう応じるか。処世の秘訣は誠の一字、と続けて語っている。
  • コレデオシマイ
    最期の言葉と伝わる。1899年1月19日、風呂上がりに倒れて没した。長い遺言でも志を継げという言葉でもない、店じまいの挨拶であった。

技量で、その学びを追う

行動を重ねるごとに技量が伸び、物語の段が解禁される。

  • 洋学

    永井青崖に学び、辞書を一年で二部書き写した。開国後は英語に乗り換える。窓の言葉が変わっても、読み解く力は残る。

  • 経綸

    国をどう畳み、どう建てるか。海防意見書、海軍の構想、旧幕臣を食わせる算段。

  • 海軍

    長崎伝習所の五年と、咸臨丸の太平洋。ただし本人は操船の名手ではなかった。

  • 談判

    交渉とは口先ではなく手数である。宮島の停戦、西郷との会談、福沢への返書。

  • 人望

    身分を問わず人を弟子に取り、敵将の名誉まで回復する度量。

  • 胆力

    九度襲われて一度も抜かなかった。江戸を焼く支度をして談判に臨む肚。

行蔵は我に存す、毀誉は他人の主張、我に与からず我に関せずと存候
福沢諭吉『瘠我慢の説』への答書(1892年2月6日付)。福沢の書状の翌日に返し、しかも「誰に見せてもかまわない」と公開まで許している。

いま、その生涯をたどる。

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