勝海舟(1823-1899)は、幕末から明治にかけての幕臣である。文政六年、江戸本所亀沢町に生まれた。旗本とはいえ、その身分は曾祖父が金で買ったものだったと伝わり、暮らしは江戸の武家のなかでも最下層に近かった。剣は島田虎之助に学んで免許を得たと伝わるが、生涯ひとりも斬っていない。刀の柄と鞘を紐で結わえ、抜けないようにしていたと本人が語っている。
蘭学を独学し、辞書『ドゥーフ・ハルマ』を一年かけて二部書き写して、一部を売って借料に充てた。ペリー来航の年に出した一通の海防意見書が老中・阿部正弘の目に留まり、無名の下級幕臣が歴史の表に出る。長崎海軍伝習所で五年を過ごし、万延元年には咸臨丸で太平洋を渡った。もっとも彼は艦長でも司令官でもなく、航海のあいだは船酔いで艦室から出られなかった。海軍を作った人であって、海の名手ではなかったのである。
神戸に海軍操練所を開き、脱藩浪人・坂本龍馬を弟子に取る。慶応四年、幕府が畳まれる側に回ったとき、勝は江戸を焼く支度を整えたうえで西郷隆盛との談判に臨んだ。山岡鉄舟の先行交渉、大奥の嘆願、諸外国の牽制——あらゆる札を並べた末の二日間で、百万の町は戦火を免れる。明治を三十年生き、節を曲げたと責められながら旧幕臣を養い、西郷の名誉を回復し、旧主・徳川慶喜の拝謁を実現させた十か月後、風呂上がりに倒れて没した。享年七十五。